忘れ得ぬあの笑顔

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忘れ得ぬあの笑顔

楽しかった家弓達との食事会を終え、零は誰も居ない部屋の電気を付ける。 最低限のモノしか置いていないし、一人暮らしには広すぎる部屋だ。 上着をハンガーに掛け、ソファに座り込むと、大きく息を吐いた。 「久し振りに思い出したな。アイツ、元気でやってるかな」 零はそう言いながら、チラリと視線を壁に向ける。 そこには沢山の風景や街並みの写真が飾られている。 その中に一つだけ、零と一人の男性が楽しげに映っている写真があった。 今の花屋を開店した時に撮った一枚だ。 「…泰雅(たいが)。僕は元気にこの店をちゃんと守ってるよ」 零は写真に語り掛ける様に呟くと、何かを吹っ切りたい思いからか、ベランダへと歩を進める。 夜の少しひんやりとした風を浴びながら、煙草を咥える。 お気に入りのZIPPOのライターの炎が暗闇にぼんやりと浮かび上がった。 「お前とお揃いのライター。泰雅、無くさず持っているかな」 零は何かを思い出したのか、笑みを見せながら、ライターを月夜の光に照らす。 山岸(やまぎし)泰雅。 零より一つ年下で、彼に負けないくらいスレンダーで歳に似合わない程の童顔の青年。 勉強熱心で、一つの事に没頭する癖がある。 今の花屋を立ち上げる際、苦労を共にした、とても頼れる存在だ。 そして、零のを捧げた人物でもある。 泰雅との出会いは、零が花屋への憧れを強く抱く様になった二十九歳の時だった。 色々調べようと市場調査を始めた頃。 たまたま立ち寄った都心の花屋がきっかけ。 泰雅は店員。零は客。 どこにでもあるありふれた一幕。 「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」 黒縁眼鏡をかけた泰雅が、やや挙動不審の零に向かって声を掛けて来た。 「あ。えっと、その…」 「種類が多くて戸惑いますよね。例えば、どんなシチュエーションで使いたいか、良かったら教えて貰えますか?」 「シチュエーション?」 「そうです。誰にあげたいとか、いつ渡したいとか」 泰雅の接客は客に寄り添って話が進んでいくので、零も自然と具体案を口にしていた。 本当はお店の市場調査の為、と言い放ってみたかったが、そんな隙を見せる事すら出来なかった。 咄嗟に出たその具体案こそ 恋人にあげたい と言うフレーズだった。 「なるほど。好きな人にあげたい、か…」 泰雅は束の間、思案に耽る。 零は目を盗んで、彼の顔を見つめる。 (学生さん、なのかな?) その表情が余りにも幼く見えたので、零はぼんやりとそんな事を思っていた。 「お客様。今回の予算は?」 「えっ? あ、っと…。三千円、くらい?」 「わかりました。すぐに(しつら)えますので、少々お待ちください!」 彼は元気よくそう告げると、颯爽と店の奥へと消えて行った。 一人残された零は、辺りに広がる花々に目を奪われていた。 (いつ見ても、花は綺麗だな。匂いも、色も、全てが美しい) 仕事で疲れた心にその匂いと色合いは大変沁みる。 すると、 「お客様。お待たせしました」 「あ、はい…。えっ?」 声を掛けられたので、零が振り向くと、そこには瑠璃色に輝く薔薇の花束を持った彼が居たのだ。 「いかがでしょうか?」 「き…綺麗だ」 零は一瞬でその花の色に心を奪われた。 「お客様に似合うと思って。店長に内緒ですよ? この花、なかなか出回らない貴重種なので」 「そ、そんな。僕には勿体ない!」 「良いんです。お客様はきっと花が好きな人だろうし、大切にしてくれると思ったので」 泰雅はそう言って、満面の笑みを見せた。 まるで宝石のような花弁に彼の笑みが万華鏡の如く鮮やかに浮かんだ。 零は息を呑んでしまった。 圧倒的な「美」に陶酔してしまう程に。 「…貴方になら、相談出来るかも」 ボソリと抑揚のない声で零はそう言った。 そして、自然と彼の手を掴んでいた。 「え? 相談、ですか? てか、俺。恋愛相談とか無理ですけど…あと。なんで今、握手?」 これが零と泰雅の初めての出会いの一幕だった。 零はフッと我に返る。 「懐かしいな。そんな時代もあったっけ」 彼はそう言いながら、スマホを取り出し、電話帳機能を検索する。 【泰雅】 今でも零の携帯には、彼の名前が刻まれている。 だけど、電話はしない。 零は彼の事を信じているから。 いつか目的を果たし、ここに戻って来る事を。 (その時が来るまで、僕は誰も抱きはしないし、抱かれもしない。そう決めたんだ) 零は一人、広すぎるベランダで彼と過ごした日々に想いを馳せるのだった。 何処か清々しい表情を浮かべながら。
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