1 受け子

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1 受け子

 正樹は都内から三十分ほどの郊外の駅に着いた。待ち合わせの場所は改札口を出た駅の構内。指示どおりにここで高齢の女から、現金を受け取ることになっていた。  ホームの時計は四時を過ぎていた。適度に人が混みはじめて、身を隠すには丁度よかった。エスカレーターで改札階に上がる。  改札の前に白髪の女性が見えた。改札から出る客を一人ひとり目で追っている。待ち合わせの人物に間違いなかった。しかしまだ接触するわけにはいかない。張り込んでいる警察がいないかを確かめなければ安心できなかった。  正樹は携帯の画面を確かめるふりをして歩き、老女の視線をかわして、そのままロータリーに向かう。ロータリーの先に交番があったが、警官の姿は見えなかった。この犯行はまだバレてはいないことに安心して、老女のいる改札階に再び戻った。  白髪の老女は頬骨の目立つ顔に、髪は耳の下で切り揃えられていた。背骨は深く前に曲がり痩せていた。背丈の割には手足は大きく、アンバランスに見えた。八十歳とも九十歳とも見える。  ほかにそれらしい高齢の女は見当たらない。白髪の老女がターゲットに違いなかった。声をかけて現金の入った紙袋を受け取ってすぐに引き返すはずだった。スーツ姿の中年の男と老女が立ち話しをしていても、気に留めるものはいない。さっさとことを済ませ、人混みに紛れて去る、それだけでよかった。 「河島さんですか?」  正樹はターゲットの老女に声をかける。 「ええ、河島です。息子の会社の方かしら?」 「丸中商事の中田です。息子さんの代わりに参りました」  正樹は老女の息子の同僚の設定だ。 「あの子は本当に大丈夫でしょうか?」  得意先に向かう途中の息子が、支払う必要のある小切手を鞄ごと落としたことになっている。 「大丈夫ですよお母さん。今日中に現金を支払えば、相手も納得するはずですから、私に任せてください」  老女のすがりつくまなざしに応える。 「では、お約束のモノをお預かりしましょう」  現金を取り出そうと老女は、血管の浮かぶ大きな手をハンドバッグに入れた。被せ蓋のある黒革のバッグで、質屋に持っていけば高額で引き取ってもらえる代物だろうことは、ファッションに無頓着な正樹にもわかった。 「どうかしましたか?」 「ないのよ……」 「えっ、」 「入れたはずなのに、ないのよ……」  落ち着きなくオロオロする老女。 「落としたのかしら、どうしましょう?」 「入れたのはこのバッグですか?」 「お金を封筒に入れて、確かにこの中に入れたのよ」  正樹もバッグの中を覗き込むが何も入っていなかった。 「落としたのかもしれないわ。交番に行かなきゃ」  交番の方に向かって歩き出す老女の前に正樹は立ち塞がって止めた。交番になど駆け込まれたら終わりだ。 「まず冷静になりましょうよ。こうゆうときは落ち着いて順を追って思い出すことが大事なんです」  動揺をおさえて、正樹は穏やかに話す。 「そうよね……」 「このバッグの形状から自然に落ちることは考えにくいと思いますよ」 「でも、ちゃんとお金は入れたのよ」 「……ここに来る途中でバッグを開けたことは?」 「ないわ」 「じゃあ、人や物にぶつかって、転んだりしたことは?」 「それもない」 「それでは家を出るときのことを思い出しましょう」 「家を出るとき? あ、もしかしたら……、このバッグと同じものをもう一つ持っているの。間違えて持ってきたかもしれない」  落としたのでもなく、取られたのでもなく、お金の入ったバッグは家にあるのだということだ。 「うちに取りに帰るって、これからですか?」 「すぐ近くだから待っててくださる?」 「近いなら、僕も行きます。ここで待つよりいいでしょう」 「そお、一緒に来てくたほうが私も助かるわ」  老女は、スタスタと駅の出口に向かう。正樹はその後ろをついて歩いた。  正樹はギャンブルがやめられないという致命的な問題を抱えていた。ツキがくれば何とかなると考えていたが、ツキはまわってはこなかった。借金は増えるばかりで、妻子と別れ、友人を失い、親戚とも絶縁された。そして闇金の借金を返すために犯罪に手を染めた。  四十歳を過ぎて受け子をやるとは思わなかった。捕まるリスクが高いことはニュースを見ればわかる。しかし後戻りはできなかった。  はじめの頃は正樹にも老人を騙すことに多少の抵抗があった。騙されてるとは知らずに、息子のために深々と頭を下げて、封筒を差し出す高齢の女性は、田舎の母親と重なって見えた。 「人の心配するより、自分の心配をするんだな」  正樹の心を見透かすようにグループを仕切る山本が言った。 「世の中、食うか食われるかだ。喰われる側にはなりたくないだろ」  山本はニンマリと笑った。  封筒に入った金額の数パーセントの報酬は魅力的だった。回を重ねるごとに胸の痛みも感じなくなっていった。  金のない自分とは違い、用意できる金を持っているのだ。自分より恵まれているのだからと思うと罪悪感も薄らいでいった。
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