2 遠い家

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2 遠い家

 老女は歩くのが速かった。その後を正樹がついていく。早く歩くのは老女が無理をしているのだと思った。転倒して骨折でもされたら大ごとになる。救急車がよばれ、交番から警官も駆けつけるに違いない。 「そんなに慌てなくても……、向こうには話がついていて、今日中に持っていけばいいんですから……」 「急がないといけません。待っているはずですから……」  老女は振り返り笑顔だった。呼吸も全く乱れていなかった。  息を上げているのは正樹の方だった。ここ何年も体を使うことはなく、胴回りには、うっすら贅肉がまとわりついていた。こんな年寄りに負けるほど体力が落ちていたのかと愕然とした。    すでに歩いて二十分は経過していた。  遠いじゃないか、と小言を言いたいところを堪えて、あとどのくらいかを老女に問うと、「もう少しですから」と返ってくるだけだった。  やがて繁華街を抜けて、瀟洒な住宅が立ち並ぶ団地に入った。車庫には高級車が見える。高級住宅街のようだった。老女のバッグが高級品であることを考えると、老女の家はこの住宅街のどこかに違いないと期待した。しかし老女は住宅街を通り抜け、さらに先を目指して歩いた。  老女の歩みは淡々と一定の速度で進んだ。息を乱すこともなく、全く表情も崩さない老女の体力は、尋常ではない気がした。  「脳が壊れると、疲れたことも感じなくなるのよ」母親の言葉を思い出した。認知症の父は一日中徘徊し、その移動距離の長さに驚いたものだった。  バッグを間違えたのは、うっかりミスではなく、老女は認知症ではないのか、との疑いが沸いた。このまま、ついて行っていいものか、隙を見て、あの高級バッグだけでも、もぎ取って持ち帰ろうか正樹は迷った。しかし、ときどき正樹を振り返る老女に隙はなかった。  三十分ほど歩いたあたりから、人家は少なく、畑が多い風景に変わった。道幅は狭くなり農道のようだった。さらに坂道へと繋がっていた。  ここまで来たら、引き返すより老女の家を見てみたいという気持ちの方が大きかった。  勾配の緩い坂道を登りきったとき、 「そこですよ」  老女が仰ぎ見た先を見ると。大きな門構えのお屋敷が見えた。  屋敷の周りを囲むように杉の木が配置され、黒々とした影を落としていた。周りには家はない。屋敷が平原に浮かぶ森のように見えた。  上に庇のある和風建築の門構えだった。 「すごいですね。時代劇で見た武家屋敷みたいじゃないですか」 「武家じゃないわよ。ただの農家よ。名主だったと聞いたけど」  屋敷の表は板塀で囲ってあり、中が見えないようになっていた。門扉は閉じられていたが、その横に出入り口があった。老女はそこから屋敷の中に入ると、正樹を手招きした。
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