楽師の無音唄

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楽師の無音唄

 ユタの目の前で、マホロの白い指が弦を弾いた。琴の高い音が尾を引き消えると、次には早い調子でかき鳴らす。マホロの黒い髪が、指の動きにつられるように細かく揺れた。  冬の調べ。  凍てつくような寒さを称えた音色は、冷たく怜悧だ。  マホロの音に聞き入っていたユタは居ずまいを正し、すう、と息を吸い込んだ。琴に合わせて唄声を響かせる。うまく唄おうなんて思わない。マホロの音と溶け合わせるのだ。瞳を閉じて、音の海に身を落とす。  ふたりの娘の音は空気を震わせ、はるか遠くまで響き続ける。  小さな山の社だ。開け放した戸の先では白い雪が舞い散り、夜の闇がこごっている。  鳥居の先を見れば、物ノ怪が見えた。闇をいっそう黒く染めた影たちが、ユタとマホロの音の刃に切り裂かれて霧散していく。 「ようやった」  旋律が途切れると、(やしろ)の隅に控えていたばば様が言った。 「だが、まだまだ才は伸ばせる。明日も修練じゃ」 「えええ……!」  ユタとマホロはふたりして悲鳴を上げる。ばば様が目を釣り上げた。 「修練せねば、死ぬのは己ぞ」 「……はい。がんばろう、マホロ」 「わたし、修練きらい」 「これっ!」  琴を奏でる静かな顔から打って代わり、子どものように頬を膨らませてそっぽを向くマホロに、ばば様は鬼の形相になる。ユタが苦笑すると、ばば様がますます眉間の皺を深め「だいたい、お前たちは楽師としての自覚が」と長いお説教がはじまった。  楽師は、その音で魔を祓う。  夜ごと、山の闇から物ノ怪は現れた。彼らを祓うことができるのは楽師の音色だけだ。ユタとマホロは、ばば様のもとで唄と琴を習っていた。夜になるとこうして物ノ怪祓いに勤しんでいる。 「ほれ、次も来たぞ。用意せい」  闇が固まり、物ノ怪となる気配がした。マホロはやれやれとため息をつき、ユタは湯吞みに口をつけて喉を湿らせる。 「ねえ、ユタ。次はなんの調べがいい?」 「任せるよ」 「そればっかり。まあいいわ」  マホロが弦に指をかける――、そのときだった。  世界が突如、黒く染まった。  一瞬、なにも見えなくなった。  悪寒が駆け抜けた。肌が粟立つ。鼓動が打つ。  世界の色はすぐにもどったが、ユタの頬を冷たい汗がつたった。  なに今の。  そう言おうとして、ユタははっとすると喉を押さえる。  ――声が、出ない。  いや、声だけじゃない。音がしないのだ。風が森の葉を撫でる音も、夜鳥の声も。そこにあるべき音がない。なにも聞こえない。  無だ。  マホロとばば様を見る。ふたりとも、呆然としていた。マホロの瞳が見開かれ、震える指が外に向けられた。ユタも振り返る。  物ノ怪がいた。  鳥居に控えていた衛士(えじ)も異常を知り、怯えた顔でよろよろと後退する。その衛士の首元に、物ノ怪が噛みついた。衛士は悲鳴も上げずに倒れ込む。  血が、首筋を流れる。月明かりにぬらりと光る。  ユタは、衛士の最期を見届けることができなかった。ばば様が社の戸を閉じたのだ。乱暴な所作だったのに音はしない。ばば様は戸にまじない札を叩きつけた。  その日、世界から音が消えた。
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