短編作品「誰もいない森で」

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「誰もいない森で木が倒れた時、音は鳴らない」  工藤さんが言った。一定のペースで歩きながらも、全く呼吸が乱れないその様子は、熟練の登山者を思わせる。 「なんの話ですか?」  彼の背中を追いながら、僕は尋ねる。 「哲学だよ。認識が先か、存在が先か」  例えば、と工藤さんは話を続けた。年齢は僕より3つ上らしいが、世の中を見通していそうな喋り方は、もっと年上の人間と話しているような錯覚を僕に与える。 「時計の針の音。気になりだすと、やたら耳に残るだろ」 「ありますね、そういうこと」 「だが気にならない時は全然気にならない」 「あぁー」  僕は間延びした声を吐き出す。 「確かに」 「あれは、本当に音が鳴っていないんだよ。俺たちが認識していないから、存在が消えているんだ」 「えっと」  僕はまた黙り、 「そういう考え方もできる、ということですか?」  と尋ねた。 「鋭い」  工藤さんの肩が揺れた。笑ってくれているらしい。 「俺はこの考えを支持している。この世界は、存在よりも先に認識があるんだ。認識していなければ、どんなものも存在しない」  工藤さんの後頭部を見ながら、僕はつい1時間前のことを思い出した。  山梨県の富士河口湖町から鳴沢村にまたがって広がる森、いわゆる樹海にやってきた僕はそのとき、不幸にも道に迷ってしまっていた。見渡す限りの広葉樹林。自分がどこにいるのかもわからず、どれだけ歩いても景色は変わらない。すでに太陽は傾きかけ、うっすらと冷え込み始めていた。苔で覆われた緑色の岩に赤色が差し込み、奇妙な色合いが森を包み込む。その不気味さに、僕はゾッとしていた。 「あんた、なにしてんだ」  そんな時、僕に見つけてくれたのが工藤さんだ。彼は、自分がとあるNPOに所属しており、この辺りをパトロールしているのだと説明した。 「で、あんたは?」 「植物の調査を。大学院の、研究の一環で」  慌てて僕は財布から名刺を出す。念の為持ってきて良かったと心の底から思った。 「吉田薫(よしだかおる)」  工藤さんが名刺を読む。その目付きは鋭いままだ。 「一応、今はこんな研究を」  聞かれたわけでもないのに僕はトートバックを開き、メモ帳を見せた。ペラペラと流し読みをする工藤さんに「実は迷ってしまったんです」と状況を説明した。 「わかった」  工藤さんはメモ帳を僕に返し、そしてコンパスを確認すると歩き始めた。 「ついてこい」  工藤さんは話好きの男性だった。冒頭の哲学の話もまた然り、それ以外にも森の中を歩きながら、たった1時間のウチにあれやこれやの話題を僕に振ってきた。 「吉田君は恋人とかいるの?」 「え、あ、はい」 「名前は」 「恵美です」 「恵美ちゃんはいくつ」 「同い年です」 「出会いは?」 「研究室が同じで」 「付き合ってどれくらい?」 「もう、5年ですかね」 「初めての恋人?」 「ええ」 「親には」 「一度、母親に会わせました。うち、片親で」 「可愛い?」 「まあ、僕にとっては」 「性格は? おっとり系? サバサバ系?」 「どっちかと言えばサバサバ系です。向上心があるっていうか、男まさりっていうか」 「血液型は?」 「あの」 「ん?」 「僕の恋愛事情、そこまで気になります?」  僕が尋ねると、工藤さんは歩くペースを少し落とし、顔を半分こちらに向ける。口の端が歪めると「趣味なんだ」と答えた。    そんな調子で工藤さんは常に喋りっぱなしだったのだが、不意に、工藤さんの足がピタっと止まった。何だろう、と思うより先に、工藤さんがそうした理由が僕の視界に入ってきた。 「あ」  思わず声が出た。  覚悟はしていた。樹海である以上、こういうものに出会う可能性があると言うことに。今、僕が見える範囲で最も幹の太いヒノキ、その枝にロープの片側が縛られている。もう片側は地面へと伸び、その先は輪っかを描いて結ばれていた。そして、その輪を人間の首が通っている。首吊り自殺だ。  外見から中年の男性であることがわかった。専門的なことはわからないが、そこまで日が経っていないのだと思う。だが、やたら首が長い。体の重力によって、首が伸びてしまっているのだ。ミキッと嫌な音がした。どうやら、彼をぶらさげている枝の付け根から出た音らしい。もしかしたら、そのうち折れてしまうかもしれない。  工藤さんは地面に膝をつき、目を閉じて両手を合わせていた。その様子はとても慣れているように見えた。そう、樹海の見回りをするというのはそういうことなのだ。 「樹海で自殺をしにきても、自殺できないことがある」  合掌をしたまま工藤さんは言う。 「あ、それ」  と僕は彼の背中に返す。 「聞いたことがあります。遭難で亡くなる人もけっこういるんだとか」  樹海では、遊歩道を少し外れるだけで背の高い広葉樹林が空を覆い尽くしてしまう。方向感覚は簡単に狂うし、凶暴な野生動物も徘徊しているし、冬は氷点下を下回ることがほとんどらしい。そして、これは眉唾物の話だが、この世のものではない「何か」に誘われて戻ってこなくなることもあるんだとか。 「もう少し歩けば、遊歩道だ」  気づけば、工藤さんは立ち上がっていた。 「はい、ありがとうございます」 「本当に良いんだな?」  工藤さんが僕の目を見た。 「どういう意味でしょう」 「本当に、遊歩道に戻っても良いんだな?」  心臓がキュッと縮んだ。 「というと?」  僕はできる限りの平静を装う。 「ここで色々な人間を見てきた。自殺する奴は大体わかるんだ」 「名刺を見せましたよね?」 「見た」 「メモ帳も見せました」 「あぁ」 「じゃあわかるでしょ。僕は、樹海の植物を調べているだけです」 「樹海の植物を調べている人間が、樹海で自殺しようとしているだけだ」  さて、どうしようか。いくらでも言い訳はできる、黙り通すこともできる、あなたには関係ないでしょうと声を荒げても良い。でも 「そうです」  僕は全てを認めた。 「話してみろ」 「なにをです」 「死のうと思ったわけだよ」 「そこまで気になります?」 「趣味なんだよ」  僕は頭を掻く。一体なんだこの人は。 「わかりました」  僕はトートバッグから先ほどのメモ帳を取り出した。 「これは、彼女と共同で進めていた研究でした。その研究は、まあ、僕みたいな大学院生が手がけたものなので、世界をひっくり返すとか、そんな大それた内容じゃありません。ただ、大学に入ってからの6年間の、僕にとっては集大成みたいなものだったんです」  工藤さんは腕を組み、僕に話の先を促す。 「でも、なんていうんでしょう」  僕は続きの言葉を選ぶ。どう表現するのが適切だろうかと。だが、やはり他に上手い言い方も見つからず、最初に思いついた言葉をそのまま口にした。 「横取りされたんです」 「……横取り」 「僕が師事している教授が、僕の研究を自分の研究として発表したんです」  ほんの少しの間、工藤さんは何かを考えているような表情をした。そして、「ありそうだ」と答えた。 「なんですか、ありそうって」  僕は力なく笑う。 「ありそうだろ、才能ある若者の手柄を、落ち目のベテランが奪い取る。うん、とてもありそうだ」 「まあ、言われてみれば」  言われてみればそうかもしれない。 「それだけなら」 「それだけなら?」  まだ続きがあるのか、と工藤さんが右目を釣り上げる。 「教授をそそのかしたの、僕の彼女だったんです」 「……わお」 「彼女は教授と浮気をしていて、いや、結果的には僕が捨てられたんで、厳密には僕と浮気してたってことになるんですけど」 「いくつなんだよ、その教授は」 「確か、40後半です」 「それはつまり……」  工藤さんの言わんとしていることを察し、僕は「そういうことです」と先回りをする。 「彼女、向上心があったんで」 「……で、か?」  はい、と僕は答えた。 「で、です」  彼女に捨てられ、研究も横取りされ、僕が人生を賭けて費やしてきたものが綺麗さっぱり無くなった。 「だから、もう色々と良いかなって」 「俺と会ったとき、迷ったって言ってたよな」 「あぁ、はい」  僕は少し気恥ずかしい気持ちになる。 「僕、片親って言ったじゃないですか。父が、と言っても僕が生まれてすぐに死んだんで顔も覚えていないんですけど、その父が、この辺りの崖で事故死しているんです。最後に、その場所だけ見ておきたくて」 「そうか」  工藤さんはポツリとつぶやき、 「教えてくれてありがとう」  と頭を下げた。それが何に対しての感謝なのか僕はピンとこなかった。ピンとこなかったが、それ以上に大きな疑問が僕に生まれていた。今、僕が見ている景色に違和感があるのだ。何だろうと逡巡し、その正体が工藤さんの右手にあると気づく。彼の手に小型の斧が握られているのだ。なぜ持っているのだろう。いや、そんなことより、いつの間に持ったのだろう。 「工藤さん、それって――」  ヒュン。  と風の音が聞こえた。気づけば、工藤さんの振り下ろした斧が僕の左肩に突き刺さっている。 「え」  と言うのと同時に僕はバランスを崩し、その場に倒れた。 「工藤さん?」  僕の質問に答えず、工藤さんは僕の体から斧を抜き取る。瞬間、火傷のような痛みが走った。痛い。肩が痛い! 「く、工藤さん」  やはり彼は僕の質問に答えない。うっとりする表情で僕を見下ろし、ニタリと笑った。斧を持った右手を振り上げる。工藤さんの鼻の穴が広がる。沈みかけの夕日に照らされ、その目がぎらりと光る。  いつのまにか僕は走り出していた。わけもわからず、自分が進んでいる方向が北なのか南なのかもわからず、僕は走っている。左肩からは血が噴き出ていた。背後から足音が聞こえる。工藤さんが僕を追いかけてきている音だ!  なんで? どうして? 次々に疑問が頭に浮かぶ中、 ーー樹海で自殺をしにきても、自殺できないことがある  工藤さんの話を思い出した。そうか、そういうことか! 自殺しに樹海にきても自殺できない。なぜなら自殺に来た人間は殺されているからだ。そう、工藤さんみたいな猟奇殺人者に! 「嫌だ、嫌だ!」  必死に手足を動かしながら、僕はずっと「嫌だ!」と言っていた。死ぬつもりだったのに一心不乱に工藤さんから逃げていた。左肩の痛みが、僕の生存本能を呼び起こした。生きろ、生きろ。死ぬな!  我に返ると、僕は樹海の最寄駅に立っていた。どうやってここまで来たのか、どれくらい時間が経ったのかさっぱりわからない。  ただ、生きていて良かった、と思った。彼女に裏切られ、研究の成果も失い、あんなに絶望していたはずなのに。僕は今、生きていて良かったと思っていた。  そのとき、 「薫……」  誰かが僕の名前を呼んだ。振り向くと、そこには母が立っていた。手には封筒が握られていた。家を出てくるときに書き置いてきた遺書だ。 「薫!」  母が駆け寄り、僕を抱きしめる。「良かった、本当に良かった」。母はそう言って何度も呟いた。そうか、と僕は思った。色々なくしたと思ったけど、僕にはこの人がいたんだ。途端、なぜだか涙が止まらなくなった。 「母さん、ごめん」 ーー認識しなければ存在しないのと同じなんだ  再び工藤さんの言葉が思い出された。  東京に戻る電車は空いていた。母は、安心した反動なのかスヤスヤと僕の隣で眠っている。  それにしても不思議な体験だった。今日のことを振り返りながら、僕は自分の左肩を見る。まるで最初からそんな事実はなかったかのように、工藤さんに斧で切り付けられたはずの傷はなくなっていた。あれは、夢だったのだろうか。いや、でも確かに僕はあの人に殺されかけた。しかし肩に傷はない。それに、もし夢なら、どこからが夢だったのだろう。  そんなことを考えているうちに、僕も眠ってしまった。  夢を見た。これは正真正銘の夢だ。  僕は、さっきの樹海にいた。目の前にはもう一人の僕と、そして工藤さんがいる。工藤さんに斧で切り付けられ、もうひとりの僕は尻餅をついていた。工藤さんが僕の体から斧を抜き、そしてそれを振り上げる。次の瞬間、 「うわああああ」  叫び声をあげ、もうひとりの僕は逃げ出した。その背中を見送りながら、工藤さんはため息をつく。 「もうバカなこと考えなよ、薫」  あれ、と思った。なんで工藤さんは僕の下の名前を呼んだのだろう。まあ夢だから、そういうこともあるか、と勝手に僕は納得する。  工藤さんが僕を見た。ドキッとしたが、どうやら僕ではなく、その背後らしい。その視線を追って僕も振り返る。そこには、僕の記憶通り、中年男性の首吊り死体があった。 「あ」  男性を吊るす枝に大きな亀裂が、まさに今現在進行形で入っている。「折れそう」と僕が思ったその時にはもう遅かった。  枝が折れた。男性が地面に落ちた。  しかし音は鳴らず、森はとても静寂だった。  まるで、それを認識する人間など、そこにはいないかのように。
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