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今でも思い出す。
私が家を出る直前のこと。
「このことは、他の誰にも内緒よ。絶対に」
お母さんはお兄ちゃんを抱きしめて、そう囁いていた。
その日、私は歩いていた。
雪のようなものが舞い降る浅瀬の川の中を、裸足で、これと言って陽気な感情もなしに、ただ何も考えずに、おじいちゃんの跡を追いかけていた。
その日は私の5歳の誕生日だった。
だからおじいちゃんは何かプレゼントになるものを探してくれていた。
おじいちゃんは物知りだった。
おじいちゃんが言っていた。
雪というものは、触るととても冷たいのだと。
雪の降る冬の季節は、本当なら、こんな風に裸足で川の中を歩けないほど寒いらしい。
でも、宙を舞っている白いものは、特に冷たいとは思わないし、くるぶし程まで浸っている川の水も、凍えるほど冷たいとは感じなかった。
「あ」
不意に視界に入ったそれに、私は小さな飛沫を上げながら近寄った。
それは、白の綿帽子を被った一匹のワニだった。
背中にも雪らしきものが薄く降り積もっているが、ゴツゴツとした鱗のでっぱりが美しく並んでいるのが分かる。
ワニは目を瞑っていて、ぴくりとも動かない。
私はワニの鼻先へそっと手を伸ばす。
すると、
「いけないよ」
やんわりとした口調で、おじいちゃんに止められた。
「どうして?」
「そのワニは凍えて死んだ訳ではないからね」
「死んでるの?」
「ああ。可哀想に。病気だよ」
「どうして分かるの?」
「トット。足元に気をつけなさい」
おじいちゃんはそう言うとゴホゴホと咳をした。
口元に拳を添えて苦しそうに咳をするおじいちゃんの胸ポケットから、メッキの剥がれたメガネが落ちた。
それは川の中ではなく、運良く降り積もった雪の上に落下する。
おじいちゃんは困ったように眉を歪め、そのメガネを拾わずに先を行ってしまう。
研究者であるおじいちゃんは、本を読む時必ずメガネをかける。
だから私はそのメガネを拾ってあげようとした。
「トット。それはもう使えないよ」
「どうして?」
「そんな所に落ちてしまったからね」
「でも、無いと本が読めないよ?」
「そうだね」
「もう一個あるの?」
「いいや。それだけだよ」
「それならどうして? もう要らないの?」
「仕方ないのさ。そんな所に落ちてしまってはね」
「拾えるよ?」
「拾えてもダメなんだよ」
「壊れてないよ?」
「壊れてなくても、もうダメなんだよ」
「ふーん」
おじいちゃんは私の手を引き、無理矢理その場を離れさせる。
「さて、何か甘いものが見つかるといいのだが……。今日はお腹が空いているのかい?」
「分からない」
おじいちゃんは困ったように笑っていた。
また別のワニが一匹、雪に包まれた状態で固まっているのが見えた。
「この先に、ブドウによく似た木の実が成っているんだ」
おじいちゃんは前方を指差した。
その指先を視線で辿れば、ひょこひょこと動き回る生き物が目に入る。
青色に発光しているとても長い髪の毛をずるずると引きずった、丸っこい小動物。
地面を蹴っては宙を舞い、まるで地面をバウンドする風船のような動きで近づいてきた。
「おいトット。お前は今日もなんともないのか?」
意地悪くからかうような声色で、その生き物は私に話しかける。
「おいトット。今日で何日目だと思う? なんと千日目だぞ?」
私は何も言葉を返さない。
この生き物と話をすることを、みんな良く思わないから。
あの優しいおじいちゃんでさえ、今もこの生き物の言葉を無視している。
そして私がこの生き物と会話をしている時は、決まって眉間に皺を寄せている。
「おいトット。お前に見せたいものがある。ついて来い」
でも、おじいちゃんは、お母さんたちのように、この生き物と話す私を叱りつけたりなんてしない。
「おいトット。聞いてるか?」
丸い生き物は大きな目を見開いて、その七色に光る瞳孔を不気味に伸縮させた。
「おじいちゃん」
「何だい?」
「ちょっと行ってくるね」
ましてや、ついて行ったって怒ったりしない。
「そうか。気を付けるんだよ」
でも、
「絶対に一人で家に帰ってはいけないよ。ちゃんと、わしのところに戻って来るんだよ」
いつも同じ約束をさせられる。
「分かった」
「この先の、紫色の実が沢山成っている場所で、待っているからね」
「うん」
「紫は分かるね?」
「うん」
「いい子だ」
おじいちゃんはそう言って私の頭を撫でた。
「おいトット。こっちだ。早くついて来いよ」
淡い光を放つ丸いそいつは、どこかウキウキとした声をしている。
私はただ頷いて、丸いそいつについて行く。
おじいちゃんは少し寂しそうな顔をして私を見送った。
「おいトット。どうして何も言わないんだ?」
私はまだ口を開かない。
おじいちゃんに聞こえてしまうからだ。
「おいトット。無視するなって」
十分に距離が離れた後、やっと私は口を開く。
「私が誰かといる時は、話しかけてほしくないって、言ったのに」
「だけどトット。お前は結局ついてきたじゃないか」
「だって、あんなシグナル送られたら誰だってついて行くでしょ」
「あれを感じ取るのはトット。お前ぐらいさ」
けらけらと笑って、ぴょんぴょんと進んでいく。
ついて来いと言ったのに、置いていくかのようなスピードで。
「おいトット。樹木が完成したんだ。きっとびっくりするぜ」
「樹木?」
「そうだぞトット。とっておきの試作品だ。とにかく早く来いって」
あまりにも距離が開きすぎて、発光している髪の毛が米粒のように見える。
「全く人間てのはのろまな生き物だ。おっと失礼」
それでもそいつの小声の悪口ははっきりと耳に届いた。
段々と日が落ちていった。
薄暗い中、あの生き物の小さな光を追って歩き続ける。
大きな茂みを抜けたその直後、目の前に無数の赤い光が広がった。
「眩しい」
毒々しいほどに赤く輝くそれは、一本の大きな樹木に成っている木の実たちだった。
規則正しくそれぞれが強い光と弱い光を交互に繰り返し、まるで心臓のように波打っている。
時折熟れた実の一つが、ひとりでに破裂して、赤黒い液体を大地にまき散らす。
「どうだトット。驚いただろう?」
誇らしげに言われたけれど、正直何がそんなに大層なものなのか良く分からなかった。
「きっとこれで我々の勝利だトット」
木の上に登って見下すように言ってきたので、私はむかっ腹が立ってしまった。
「暗くなってきたから、私、帰るね」
突き放すようにそう言って、私は踵を返した。
「いいのかトット。この木のこと、もっと教えてやるぞ?」
遥か上空からそう言われたけれど、もうたくさん歩いて疲れてたから帰りたい気分だった。
それに、私の誕生日プレゼントを探してくれているおじいちゃんを一人にしてしまったことに、今更だけど罪悪感を抱き始めていた。
「私、帰る」
「そうかよトット。ならさっさと行っちまえ」
不貞腐れたような声が飛んできた。
私は構わずにさっきまで歩いていた浅瀬まで急いで戻った。
その後に私がすべきことは明確なはずだった。
おじいちゃんを見つけて、紫の木の実を食べて、そしていつも通り、おじいちゃんの研究所に行ってから家に帰る。
いつも通りだと信じて疑わなかった。
白で包まれたワニたちを横目に通り過ぎ、私は川をじゃぶじゃぶと進んでいく。
前方で川筋は緩やかに曲がっている。
少し水深が深くなってきた。
私は川からあがり、キョロキョロと辺りを見渡した。
背の高い綺麗な植物の根元を踏んづけると、先っぽに付いている電球のような部分が光を帯びる。
無理やりそれをもぎ取って、それをライト代わりにおじいちゃんを探した。
「おじいちゃん、どこ?」
辺りには紫色の木の実が成っている。
おじいちゃんは近くにいるはずなのに姿が見当たらない。
いつもなら苦しげな咳が時折聞こえてくるので、耳の遠いおじいちゃんが返事をしてくれなくても直ぐに見つけることができた。
だが、今日は違う。
なかなか見つからない。
「わ!」
突然、何かに躓いた私は前につんのめった。
驚いて目線を下へ移すと、そこにはシワくちゃの腕が横たわっていた。
いや、腕だけではなかった。
所々に白い雪が積もっているが、それは明らかに人間で、一人の男の人で、見間違うことなく、私のおじいちゃんだった。
「おじいちゃん?」
地面に横たえ、瞬きをしないまま空を見つめ続けているおじいちゃんに、私はそっと近寄った。
体に降り積もっている雪を手で払ってあげる。
手の中には紫色の木の実が入っていた。
「おじいちゃん、大丈夫?」
いくら呼びかけても返事は一切返ってこなかった。
困ってしまった。
これではおじいちゃんとの約束を守れない。
そう落胆した。
私とおじいちゃんの間には大きな決まり事があった。
外に出たら、一度研究所でお茶をしてから自分の家に戻ること。
それが最大のルールだった。
でも、おじいちゃんは起きない。
どうすればいいかも分からない。
私はおじいちゃんの手の上に転がる実を、一粒つまみ上げ、そっと口へ運んだ。
とても甘かった。
「今日ぐらい、約束破ってもいっか」
私はよく分からなくなって、結局考えることをやめた。
来た道を一人で戻った。
空を見上げた。
真っ黒だった。
明かりは一切無かったけど、気にせず長い帰路を進み続けた。
「えす、えいち……える……いー、あーる、はち」
指を指しながら、目の前に記された文字を確認する。
いつも通っている道だったが、一人だと不安になる。
似たような建造物がそこら中にいくつも存在しているため、たまに間違えるが、きっとここが家で合っている。
長い数字をパネルに入力し、扉が開くのを待つ。
扉が開いた途端、独特な匂いが外へと流れ出す。
でも、おじいちゃんの研究所の匂いよりは薄い。
「ただいま」
誰も居ない閉鎖空間。
これが私の家の玄関というものだった。
入ってきた扉の正面には、もう一つ色の違う扉があった。
その扉の隣にも、数字を入力するパネルがあった。
これを何度か繰り返せば、やっと、家族団欒のリビングだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
広い場所に出て、一番始めに出迎えてくれたのはお母さんだった。
「おかえり」
次にお兄ちゃん。
その他大勢は、私が帰ってきたことに気付いてすらいない。
いや、本当は気付いていたのかもしれない。
どっちなのか知らないけれど、私に駆け寄ってくれるのはお母さんただ一人だった。
お母さんは私を抱きしめて、頭を優しく撫でてくれた。
「お誕生日プレゼントは貰えた?」
ひそひそと話すお母さんの言葉に、私は頷いた。
「でも、おじいちゃん、変だった」
「……何があったの?」
「地面に寝っ転がって、動かなくなってた」
「……」
「私、よく分からなくて、おじいちゃんのこと、置いて帰ってきちゃった」
「……そう」
お母さんは凄く真面目な顔になって、黙り込んでしまった。
しばらく何も言わずに黙っていた後、お母さんはもう一度強く私を抱きしめた。
潰れそうなほど、強く。
そして言った。
「トット。おじいちゃんをお家まで運んできてちょうだい」
真っ直ぐに、真剣な目で私を見つめ、芯の通った囁き声で、そう言ったのだ。
「でも、そんなの、何日もかかっちゃうよ」
「大丈夫。何日かかってもいいわ」
「でも、私、みんなのために食べ物取ってこなきゃでしょ?」
「それは気にしなくていいの。ゆっくり、急がずでいいわ。必ず、おじいちゃんをここまで連れて帰ってきて」
長らく歩き続けてやっと帰ってきたのに、直ぐに外へ出ろだなんて。
しかも、おじいちゃんを運んでまた帰ってくるなんて。
そんなの面倒くさい。
でも、嫌だとは言えなかった。
「さあ、行きなさい。今すぐ」
お母さんの顔は、有無を言わせなかった。
「……行ってきます」
私はまた出かけることになった。
扉を閉めるために赤のボタンを押した時、お母さんはお兄ちゃんを抱き寄せていた。
「このことは、他の誰にも内緒よ。絶対に」
そして扉が閉まる直前、声を震わせままそんなことをお兄ちゃんに言っていた。
私はおじいちゃんの元へ向かうために同じ道を辿った。
ふわふわとした白いものが舞い踊る川の中。
真っ白な衣をまとったワニたちを何度も横目に通り過ぎた。
そして、遂に紫の木の実が成るあの場所まで戻ってきた。
「おじいちゃん」
おじいちゃんの体は、あのワニたちと同じように、真っ白で包まれている。
やっぱり全然起きてくれない。
仕方なしに私はおじいちゃんの袖を両手で引っ張り、全身の力を使って引きずった。
一歩分動かすのだって一苦労だった。
でも、私はさっき、約束を一つ破ってしまった。
だから、今度こそ母のいいつけを守らなくてはないない。
私は一生懸命におじいちゃんを引っ張った。
なるべく平らな道を選んで移動した。
時間は無情に進んでいき、家まであと半分という時には五日が経っていた。
少しくたびれて休憩をしようとした時だった。
「おいトット。やってくれたな」
むくれたような声が頭上から降ってきた。
いつものあいつだった。
「これじゃあトット。我々の試作品が効いたのかそうでないかが分からないじゃないか」
「何のこと。今私、とっても忙しいの」
「なあトット。死んだ人間なんて運んで楽しいのか?」
「何言ってるのか分からない。お願いだからあっち行って」
「はあ、全く。物分りの悪い生き物だなあ」
「……」
私は何も返さなかった。
突然おじいちゃんが目を覚ましてしまったら、きっとこいつと話していることを良く思わないだろうと、今更思ったからだった。
黙り込んだ私を見て、そいつはどこかへ消えていった。
遠くの川原で、ワニたちは今もじっと動かずに雪に埋もれている。
私はそれから数日かけて家に帰ってきた。
数字を打ち込み、自動扉を開く。
おじいちゃんには、一先ず外で待っててもらうことにした。
おじいちゃんはこっちの家には入っちゃいけないことになっていたからだ。
私はいくつもの自動扉をくぐり抜け、あの殺風景なリビングを目指した。
最後の扉に差し掛かったとき、扉の隙間にびっしりと白いものが挟まっていることに気が付いた。
不思議に思ったけど、早くお母さんにおじいちゃんを運んできたことを伝えたくて、構わず私は扉を開けた。
しかし、その先にいつもの景色はなかった。
「……ただいま」
雪に似た、白いふわふわとしたものが部屋を覆い尽くしていた。
見渡す限り真っ白で、外の光景をそっくりそのまま家の中にはめ込んだみたいだった。
「お母さん?」
私の呼び掛けに、誰も答えない。
一歩踏み出す度に、床から雪が舞い上がる。
ふと、部屋の中に、何匹ものワニがいることに気が付いた。
川原にいた時と同じように、全身を雪に覆われている。
私は近くのワニに近寄って、そっと雪を払った。
だけど、雪に覆われていたそれは、ワニなんかではなく、生活を共にしてきた家族の一人だった。
私はお母さんを探すことにした。
慌てて動き回ったので、雪が更に舞い上がり、目の前が真っ白になる。
部屋の壁沿いに、他とは明らかに違う形の白い塊があった。
二人寄り添って、座っていた。
私は雪を払い除けた。
思った通り、そこにお母さんとお兄ちゃんがいた。
二人とも、ただ眠っているかのような表情をしていた。
私は、それから何日も、お母さんの隣で座って過ごした。
たまに他のみんなの様子をみるため、部屋を歩き回ったりした。
だけど、さすがに時が流れれば気が付いてしまった。
私がみんなのために、外へ食べ物を探しに行くことは、もう一切、必要のないことなんだと。
それを頼まれることもないのだと。
「おいトット。これ新作だ。食ってみろよ」
もうすぐ、私は十五歳になる。
「これが効いたらトット。ようやく我々の勝利だぜ」
平然と、七色の油が染み出る黒い実を口に運ぶ。
「これ、あんまり美味しくないよ」
「だからなトット。味わわせる為に作ってないんだって」
呆れたため息を聞き流し、無感情のまま咀嚼する。
視界の悪い銀世界で、ぼうっとしたまま座り込み、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つ。
最近になって、自分の置かれている状況が、やっと理解できてきた。
本当は、もう消えてしまいたい。
でも、それはしてはいけない。
私が死なない限り、まだ、人類は、敗北したことにはならないはずだから。
それが、私の使命だったはずだから。
私は目を閉じ、手の中の柔らかい黒い実を全て、口の中へと放り込んだ。
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