第1話「住む世界が違うって感じ」

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 開演まで時間はあるもののゆっくりしている余裕はない。牟児津は来た道を引き返して、益子に教えられたトイレへ向かった。益子が行ったときよりは列も解消されているだろう、という淡い期待とともに。  しかしその期待は簡単に打ち砕かれた。案内に従ってたどり着いたトイレの前は、淑女たちが列をなしていた。すぐさま牟児津はその横を通り過ぎ、階段を使って下の階のトイレに向かった。しかし上階ほど席数が少なく人も少ないのだから、下れば下るほど列が長くなっていくのが当然である。  「うわわわわっ!」  行く先々で長い行列を見ると、焦りはどんどん募っていく。こんなことなら最初から4階の列に並んでいればよかった、と後悔してももう遅い。時間が許しても牟児津の体が許してくれないところまで来ている。階段を降りに降りて地下まで来てしまい、そこでようやく牟児津は列のないトイレを発見した。何やら地上階とは雰囲気が違うが、そんなことは気にしていられない。  「ままよ!」  色々なものをかなぐり捨てて、牟児津はトイレに飛び込んだ。中は無人で、清潔なトイレが待ってましたとばかりに自動で便座の蓋を開く。牟児津は、なんとか尊厳を損なわずに済んだ。  「助かったあ〜。でもなんか、えらい遠くまで来ちゃったな」  手を洗ってトイレから出ると、ようやく地下階の雰囲気に気を配る余裕ができた。華美な装飾と上品な空気に満ちた地上階とは違い、地下はつるんとした白い金属材の壁に取り囲まれた無機質な空間だった。その空間の中に一箇所だけ、大小さまざまな花飾りで彩られた区画がある。遠くからでも分かる円形に並んだ花飾り、祝い花だった。建物に入る前に見かけたものと同じだ。  「ってゆっくり見物してる場合じゃない!急いで戻らないと!」  大きな施設の地下空間はなんとなく冒険心がくすぐられるものがあるが、今の牟児津にそんな時間はない。4階まではエスカレーターを使ってもそれなりに時間がかかる。牟児津は、ついさっき降りてきた階段を急いで駆け上がって地上に出た。  「えっとえっと、エスカレーターは──」  エスカレーターを探して視線を回したとき、視線の先で星が弾けた──ように見えた。  その人は星を纏っていた。  小さな星が降り注ぐ場所に、物憂げな表情で佇んでいた。  スローモーションように感じる刹那。牟児津の視線に呼応するように、その女性は視線を投げ返した。  心臓が搾り上げられる感覚がした。その視線に捕まった瞬間、魔法のように体の自由が奪われた。  「ぇ」  自分の声が空気を震わせた瞬間、魔法が解けた。緩やかだった時間は再び流れ出し、体が自由を取り戻した。そこに舞う星々は、正体が金平糖だと気付かれるや、たちまち地に墜ちた。それでもなお、魔法などかけずとも、その中心に立つ女性の美しさは何も変わらなかった。  「今日もダメだったか……」  「ええ……?」  「おや、どうしたのかな。お嬢さん。困っているのかい?」  「いや……どっちかって言うとそっちの方が困ってそうなんですけど」  「僕が?困ってなどいないさ。ただ、今日も自分の運命に勝てなかった。それだけのことさ」  「はあ」  整った顔立ち、中性的な声色、すらりと伸びた手足、長いまつ毛。体を構成するあらゆる要素が目に入るたび、牟児津は痺れるような感覚がした。スマートな立ち姿や言葉は男性のような頼もしさを感じるのに、顔かたちや声色には女性のような優しさを感じる。そしてそのいずれもが、人を惹きつける魔性を秘めていた。  「ああ、もったいない。楽しみにしていたのに」  そう言いながら、女性は地に墜ちた星屑を拾い始めた。いや、床にぶちまけた金平糖を片付けているだけだ。そんな何気ない所作でさえ美しく形容してしまいたくなる人だった。そんな人が床に這いつくばっている姿を目の当たりにし、牟児津はなぜか居たたまれなくなり、ポケットに手を突っ込んだ。  「あ、あの……金平糖じゃないですけど、あんこ飴なら持ってます」  「あんこ飴?それはどういうお菓子なんだい?」  「あんこの周りを飴で薄くコーティングしてるんです。口に入れたら飴がサクッとして、あんこがむにっとして美味しいですよ」  「……ほう」  「ひとついります?」  「くれるのかい?なんて優しい女性(ひと)なんだ君は!」  「ひゃっ」  電車に乗るとき、酔い止め代わりに食べているあんこ飴をひとつ差し出した。それをもらえると分かった瞬間、その女性は飛びつくように牟児津の手を両手で握った。一瞬だけひやりと冷たい感覚がしたが、すぐにその手のきめ細かさと柔らかさで温度など忘れてしまった。  「優しいついでで申し訳ないが、君にひとつ頼みがあるんだ」  「え、な、なんですか」  「その包みを開けて、僕に食べさせてくれないか?」  「なんで?」  牟児津は、思わず真っ直ぐに聞き返した。真剣な眼差しと蠱惑的な声色でそんな意味の分からないことを言われると思っていなかった。  「僕はその……あまり物の扱いが得意じゃないんだ。特にお菓子の包みは、接着が強かったり複雑に捻ってあったりして、とても太刀打ちできない。今もこうして金平糖を台無しにしてしまったところさ」  「不器用にもほどがある」  「こちら側のどこからでも切れます、という表示がされている袋さえ、まともに開けられないんだ!僕は!」  「それはみんなそうだから大丈夫です」  牟児津は足元に落ちた金平糖を見て言った。金平糖の包装は、包み紙を捻って紐で縛ってあるだけだ。紐をほどけば自然と開く作りになっているのに、こんなに景気よくぶちまけられる仕組みが分からない。  しかしどうやらその言葉に嘘はないらしいので、牟児津はあんこ飴の包みを開けてやった。  「あーん」  いつの間にか、女性は口を開けて受け入れ準備万端になっていた。なぜか目まで閉じている。初対面の相手にここまで気を許してしまう無警戒さが、他人ながら心配になる。これほどの美人にこれほど無防備なことをされ、牟児津は心の中になにやら(やま)しいものがむらむらと湧いてきてしまうのを感じた。  とはいえそれを実行に移す度胸など牟児津にあるわけもなく、素直にあんこ飴を口の中に放り込んだ。  「もむ。うん。うん。こ、これは美味しい!とろけるような甘さの飴が、軽く心地よい歯ざわりを残してあっという間に消えてしまった!その後からねっとりむっちりしたあんこが現れて、甘さの中にも確かな豆の味をもたらしてくれる!なんて美味しいんだ!こんなに美味しいものを知らずに生きていたなんて!」  「大袈裟すぎない……?」  「ありがとう!君のおかげで僕の世界はまたひとつ豊かになった!」  「うわ、わわ、どう、いた、しま、して、ええ、ええ」  よほど感動したのか、女性は牟児津の手を握って激しく上下に振る。まさかあんこ飴ひとつでこんなに喜ばれると思っておらず、牟児津は訳が分からないまま振り回されていた。  ひとしきり振り回されたとき、どこからともなく鈴の音が響いた。実物の鈴ではなく、スマートフォンのアラームだったようだ。女性はポケットからスマートフォンを取り出してアラームを止める。  「おっと。もうこんな時間か」  「えっ。おあっ!やっべ!もう劇始まるじゃん!」  いつの間にかずいぶん時間が経っていて、開演まで5分を切っていた。急いで4階まで上がって席に戻るには心許ない時間だ。  「楽しい時間だったよ。ありがとう。ああそうだ。僕がここで金平糖をバラ撒いてしまったことは、秘密にしていてくれないか?」  「な、なんでですか……?」  「僕は立場上、イメージを守ることが大切なんだ。こんな格好悪い姿、あまり知られたくないからね」  「はあ……まあ、言わないですけど」  「ありがとう。では最後に君の名前を聞かせてくれないか」  「えっ、あ、はあ、牟児津です」  「下の名前(ファーストネーム)は?」  「ま、真白……」  「真白……美しい名前だね」  「いや、はあ。そんなことより、もう劇始まりますよ」  「そうだね。真白クンが今日の劇を楽しんでくれると、僕も嬉しいよ」  足音も立てず、女性は牟児津がたったいま駆け上がってきた階段の前に立って、小さく手を振った。  「それではまた。劇場で会おう。真白クン」  「えっ?あの、そっちトイレしかない──」  牟児津が止める間もなく、その麗人は颯爽と階段を駆け下りて行ってしまった。地下に客席などないはずなのに。だが牟児津はその後を追いかけることは諦めて、自分の席を目指した。エスカレーターを1段飛ばしで駆け上がり、受付に半券を見せて小部屋へ入り、客席に飛び込んだ。時間ぎりぎりである。  劇場内は既に暗くなっており、ステージ上だけが煌々と照らされていた。関係者席はシアターホールの壁際に設置されたギャラリー席で、人数分のゆったり座れるリクライニングシートとサイドテーブルが用意されている他に、余計なものは何もない。牟児津が飛び込んだとき、益子はサービスのアイスティーをあおっていた。  「間に合ったあ〜〜〜!!」  「おお、ギリギリでしたねムジツ先輩。お疲れ様です」  「くぅ〜〜〜!余裕こかれるとめっちゃムカつく!」  「戻ってこないからどうしようかと思ったよ。どこまで行ってたの?」  「地下のトイレまで……」  「都合8階分の猛ダッシュですか。いい運動になりましたね」  「態度悪いなアンタさっきから!なに調子乗ってんだ!」  牟児津は自分の席に座り、背もたれを目いっぱい倒して寝転がった。もはや劇をゆったり観ていられる状態ではない。サービスのオレンジジュースを瓜生田がとっておいてくれたので、牟児津はすぐにそれを空にしてのどを潤した。  「っぷは〜〜〜!うっめっ!」  「本当はここに藤井先輩が座るはずだったんだと思うと、なんかこう、椅子が可哀想に思えてくるね」  「瓜生田さんの席には田中(たなか)先輩が、私の席には旗日先輩が座る予定でしたから、みんな同じようなもんですよ」  「ってかここ舞台遠くない?これじゃ顔も分かんないよ」  「サイドテーブルにオペラグラスがあるでしょ。これで見るんだよ」  「ふ〜ん、最前列の方が絶対いいのに」  備え付けの小さな双眼鏡を覗き込むと、舞台の上がよく見えた。その代わり視界が狭い。トイレが遠ければ舞台も遠く、高いチケットなのに制約が多いことに疑問を覚えつつも、ジュースが飲み放題であることに牟児津は満足していた。  ほどなくして開演のブザーが鳴り、牟児津は背もたれを上げて座り直した。さすがに大の字で劇を観るほど礼儀知らずではない。
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