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第2話「犯人はこの中にいる」
牟児津には芸術が分からない。絵の巧拙はなんとなく分かるが、美術的絵画になると何が良くて何が良くないのかさっぱり分からない。彫刻品はどれも『そういう形の置物』でしかないし、音楽や演劇に至っては良し悪しを判断する尺度すら持ち合わせていない。
そんな牟児津でも、目の前で繰り広げられているものが素晴らしいということは、頭ではなく心臓で感じ取れた。気が付けば背もたれから体を浮かし、前のめりになって劇に見入っていった。
「あ」
つい、しかし極力小さな声で牟児津は呟いた。舞台の上でまばゆい笑顔を見せるその顔には見覚えがあった。バイオリンのような美しい旋律を、小鳥が踊るように軽やかに歌う少女がいた。それは、いつも牟児津の隣の席に座っているクラスメイトの顔だった。
「宝谷さんだ」
牟児津の言葉に誰も気付かないまま、舞台は次々場面を変えて進んでいく。華やかな音楽と照明の演出、何より演者による魂のこもった舞台は、それが仮初めの物語であることを忘れさせる説得力があった。まるで本当にその場で人々が生きているかのような没入感さえあった。
そして、一段と力強い音楽が鳴り響く。劇場全体が震えた。観客は直感で理解する。この劇の主役が登場すると。
その姿が現れたとき、明らかに空気が変わった。五感の全てがその姿に集中し、それ以外の何も感じられなくなった。きらびやかな衣装に身を包み、あらん限りのライトを浴び、高らかに歌を歌いながら、彼女は現れた。その顔立ちを目にした牟児津は、
「……あっ?あああっ!?」
声を抑えきれなかった。すぐに口元を押さえる。しかし周りには瓜生田と益子しかいない。二人とも舞台上の人物よりも、声をあげた牟児津の方を気にしていた。
「ムジツさん、大丈夫?」
「ご……ごめん。なんでもない」
「なんでもないはずないでしょう。どうしたんですか」
「いや……あの人、さっき会った人だ」
「えっ、本当ですか?あれ、鳳先輩ですよ?」
もう一度オペラグラスを覗いて、その顔を確かめる。服装は違うし化粧もしているが、間違いない。長いまつ毛ときめ細かな肌、中性的な顔立ち、自信にあふれた表情、髪型も髪色も、先ほどトイレの帰りに出会った人物に間違いなかった。
「あの人、出演者だったんだ……」
「なに言ってんですか!あの人、うちの演劇部の部長ですよ?学園で鳳先輩を知らないなんてとんでもないことです!非学園生の烙印を押されても文句言えません!」
「さすがに言うよ、文句は」
「ファンが多いからね。演劇部の部長でプリマドンナ。男役が得意で顔も声も立ち居振る舞いもかっこいいから、ついたあだ名が“学園の王子様”、鳳 蕃花先輩だよ」
「なんだってうちの学園はそういう大袈裟な人たちばっかいるんだ」
「ムジツ先輩もたいがい大袈裟な方だと思いますけど」
また益子がオーバーに言っているのかと思いきや、冷静な見方ができる瓜生田でさえそんなことを言っている。もしかして本当に、自分以外の学園生全員が知っている人物なのだろうか。だとしたら1階でのやり取りも、鳳を知っている学園生からしてみればとんでもないことだったのでは。牟児津はそこまで考えて、嫌な汗をかいた。
「瓜生田さん。本当に……ほんっとうに、ムジツ先輩のことよく見ていてくださいね。いつか悪い人に騙されますよ」
「もっと物を知ろうね、ムジツさん」
「さすがにぐうの音も出ない」
非学園生の誹りは過剰だとしても、これほど大きな劇場を借りられる部活の部長にして主演級の人を知らないのはさすがに世間知らずが過ぎると、牟児津は反省した。つい先日も、自分が通う学園の生徒会長や副会長の顔も思い出せなかったことがあった。今度、学園の公式紹介動画でも観てみようと、ぼんやり考えた。
牟児津たちが鳳について話している間にも劇は進み、いくつかの休憩や楽器演奏などの幕間を経て、ついにクライマックスへと差し掛かった。鳳演じる主人公が世界の果てを目指して冒険し、幾多の苦難や人々との出会いを通じて成長していくという物語だ。最後に主人公は、世界の真実が隠されているという部屋の鍵を壊し、その中で眠る自分自身を見つけた。今までのことは全て、果てしない冒険に心を踊らせる主人公が見ていた夢だったという結末だ。なんとも尻すぼみな筋書きも、鳳を初めとする演者たちの素晴らしい演技と、巧みな光や音の演出によって荘厳な物語へと昇華され、やがて舞台は大団円を迎えた。
「ブラボーッ!!」
暗転の後、演者たちが舞台に並び、笑顔で手を振る。感動してこれでもかと拍手を送るのは益子だけではない。劇場全体に、まさしく万雷の拍手が鳴り響いている。ゆっくりと緞帳が下りるまでの間、下りきってもなお、喝采は止まなかった。終演を告げるブザーが鳴り、劇場内が明るくなってようやく、喝采は感動のざわめきへと変わった。
「いやあ〜素晴らしかったですね!さすが鳳先輩!圧巻の演技でした!」
「すごかった。うん、なにがすごいか分かんないけど、なんかこう、来るものがあった」
「てっきりムジツさんは途中で寝ちゃうかと思ったよ」
「さすがにあんなすごいの見せられたら寝てらんないよ」
興奮冷めやらぬ様子で、益子が鼻息荒く舞台の感想を牟児津と瓜生田にぶちまける。その気持ちが共有できているからこそ、いつもはうるさく感じる益子のカンカン声も、今の二人には全く気にならない。サービスのドリンクが空になり、中の氷が全て溶けきっても、益子の胸は高鳴っていた。
「こりゃあ良い経験になった。帰ってヒロに自慢しよ」
「いやいやなに言ってるんですか。まだ帰っちゃダメですよ。ていうか帰れませんよ?」
「え、なんで?」
席を立とうとする牟児津と瓜生田に、益子が眉を吊り上げて言った。
「校外公演では、演劇部の幹部部員と招待客で、劇の後に集合写真を撮るのが慣習なんですよ」
「そうなの?私も知らない」
「まあ演劇部や生徒会に関わってないとあまり知らないでしょうね。あとはまあ、詳しいファンなら知ってるかも知れませんが」
「え?てことは私たち、さっきの人たちと写真撮んの?」
「もちろん!いや〜いいですね!これで私たちも“学園の王子様”とお近づきですよ!」
「……やっべ。私、鳳さんのこと全然知らないのに」
色々と思うことはあった。藤井はこのことを知っていてチケットを譲ったのだろうか。なぜなんの説明もせずに、こんなプレミアチケットを譲ってきたのだろう。ありがた迷惑も甚だしい。おかげで良いものは観られたが、今の何も知らない状態で鳳に会ったらとんでもないことになる。知らないだけで非学園生扱いだ。鳳に失礼を働こうものなら、演劇部員から袋叩きにされかねない。
「益子ちゃん!鳳さんのことできるだけ教えて!取りあえず演劇部からボッコボコにされない程度に!」
「ボッコボコかは分からないけど、私も聞きたいな。演劇部のことあまり知らないから」
「おお!瓜生田さんにも知識マウント取れるとあっては教えざるを得ませんね!ふふん、いいでしょう!教えてあげますよあることないこと!」
「あることだけでいいよ」
こうなることを予想していたのか、あるいはこの機に乗じて演劇部を取材するつもりでいたのか、益子はカバンからいつものメモ帳を取り出した。何か起きたときにすぐ取材ができるよう、演劇部の主要メンバーについての情報は細かくリサーチしてきたのだという。そんなモチベーションでここに来ているのは益子くらいだろう。
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