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静寂を破ったのは、池の中で鯉が跳ねた音だった。
長い間まどろんでいた気がする。目を開きあたりを見渡すと、木々がもう新緑になっていた。確か以前見た風景は真っ白な雪に覆われていた。白い雪に朱色の鳥居が映えて美しくて、私はその景色をずっと見入っていた。そしてそのまま眠ってしまったのだろう。
新緑が日に透けて、まぶしいほどに光る木々に覆われた石段を、ひとりの女性が降りてくる。この池に浮かぶ祠の女神様に、願かけに来たのだろうか。恋愛成就の神様らしくて、若い女性がよく来るのだ。
私は池の脇に立つ高い木の梢に腰掛けたまま、その女性をぼんやり見ていた。よく見るととても若い。私と同じくらいかなと思う。
その女性が祠に繋がる赤い橋を渡り始めたとき、突然こちらを振り返った。目があったので、たぶん私のことが見えるのだなと思った。
「見えています」とその人は、私に向かって話しかけてくる。考えただけの気もするが、いつのまにか声が出ていたのか。
「声が聞こえたというよりは、あなたの思いが私の心の中に入ってきたんです」
橋の入口に立ち、すぐ脇にそびえた杉の木の上にいる私にそう答える。
「あなたは、ずっとその場所にいるのですか? 」
そう問われたが、その言葉の意味がよくわからなかった。
ずっとこの場所にいる?
私は「ずっとここにいた」のだろうか。
そう考えた途端に、目の前の緑が消える。白い何かがくるくるとすごい勢いで舞っている。あれは、そう、吹雪いているのだ。どこまでも真っ白な世界が広がっているが、風が強くて目を開けていられず、冷たい雪が顔に当たってくる。
寒い。そう感じた途端、また景色が変わる。
粗末な板で作られた玄関の扉には隙間があり、そこから雪が吹き込んでいる。囲炉裏の前に座っている私のところまで、風が直接吹き込んでくる。寒さを少しでも防ごうと、幼い弟や妹たちと体を寄せ合っていた。ああ、そうだ。私には弟と妹たちがいた。
土間の玄関にしゃがみ込み、母さんが両手で顔を覆って泣いている。母さんのすぐ隣に父さんが立っている。上から「泣くな、うるせえ」と母さんを叱っていた。
父さんの隣に立っていた知らない男の人が口を開く。
「あの子はね、ここで暮らすより、ずっといい暮らしができるんだよ。美味いもんを好きなだけ食えるし。綺麗な着物もたくさん着れるし。それにね、いい旦那さんにみそめられでもしたら、夫婦になることもできるんだから。どっちにしたってね、ここにいるより、うんといい暮らしができるんだよ」
男の人はしゃがみ込んで母さんの肩にそっと手を掛けた。
「だからね、心配せんでいい」
母さんは顔をゆっくり上げて、男の人をじっと見る。そして、私の方を見た。悲しそうな目をしている。私は母さんのことを安心させるため、にっこり微笑んで頷いて見せる。私は行っていいと思っているよと、そう伝えるために。
日暮れ前に駅に着くため、その後すぐに私とその男の人は家を出た。
玄関で母さんは私をぎゅうっと抱きしめてくれた。弟と妹も玄関に立っていたが、裸足だったので、幼い妹たちは、足を交互に上げて、寒いよ、寒いよとしきりに訴えていた。私と別れることの意味がわかっていない妹たちの頭をそっと撫でて
「寒いのに、ごめんね。お姉ちゃんは行くからね。元気でね」と伝えた。
弟は、お姉ちゃんだけずるいと拗ねていて、父さんにげんこつをくらっていた。
元気でねと最後に全員にそう言うと、
「しあわせになるんだよ」と母さんが泣きながら言った。
家族と離れ、船と列車で遠い場所まで来た。男の人に連れて行かれた先は、彼が話していたような「いい場所」などではなかった。故郷よりもっと寒い、うんと北の国だった。
美味しいものなど食べられなかった。粗末な御粥が出たらいい方で、お米なんてほとんど食べたことがない。お腹いっぱいになったこともない。でもそれは家にいても同じだった。確かに家にいるよりはいいものを口に出来ていたと思う。それに、綺麗な着物は着ることができた。でも、いいことと言えばそれだけだ。
粗末な二人部屋を与えられた。同室の子は私より二つ上だった。どこから来たのか、自分の故郷の名前も知らないと答えた。うんと小さい頃からここにいるらしい。無口な子で、一緒に過ごす時間も、お互いにほとんど話をすることはなかった。
私は、仕事をする部屋と粗末な二人部屋の往復をする毎日を送るうち、心と身体がすり減っていった。
そしてある日、私は血を吐いて床に倒れてしまった。窓のない狭い部屋に連れていかれてそのまま寝たきりになった。
それでも人と会える場所にいただけ幸せだったと気付いた時には、一人で歩いてどこかに行くことができなくなっていた。
こんな状態のままで、なぜ生きているのだろう。
あちこちが痛くて苦しくて、意識を失うように眠る。寝ている間だけ、痛みや苦しみが消えていた。そして時々目覚めては、薄暗い天井を見ていると、なぜまだ生きているのだろうと、そう思った。涙すら流れることがないままに。
ある朝のことだった。
目が覚めると、私の周りは真っ白な光だけがあった。吹雪の中に放り出されたのかと思ったけれど違った。なぜなら光の中は暖かくて、心地よかったから。それに動けなかったはずの身体から痛みが消えていて、驚くことに軽やかにすっと起き上がることができたのだ。
光りの中で立ち上がると、私はそのまま建物の外に出た。十歳で故郷を出て、ここに辿り着いてから、はじめての外だった。
もしも外に出ることができたら、見てみたい景色がたくさんあった。森はあるのだろうか。山や海はあるのだろうか。人はたくさんいるのだろうか。
あちこちをふらふら彷徨っていると、遠くに強い光が見えた。あの光の正体はなんだろうと、引っ張られるように近づいていった。
そして気が付くと、この池のほとりに立っていた。
たくさんの木が優しく池を覆っている。緑が濃くなりかけていた。夏が近いのかもしれないと思った。
何もかもが止まっているかのように静まり返っている。池の真ん中に小さい島があって、そこに女神様のようなきれいな女性が立っているのが見えた。とても静かに微笑んでいる。真っ赤な着物を着て、頭には金色に輝く飾りを載せていた。
冬の終わりに仕事部屋に向かう大広間に飾られていたひな人形のようだった。
女神様は私に何か話しかけてくれた。
耳の奥で空気が動いている気配はするけれど、その声は聞こえてこなかった。けれど女神様がいる場所から優しい空気がふわふわと漂ってきて、私を包んでくれた。
もしも許されるなら、私はずっとここにいたいと思った。そしてその日から、ずっとここにいるのだ。
「そうだったんだ」
突然声がした。
下を見ると、女神様が立っていた島に続く橋のところに女の人が立っている。
ああそうだ。あの人の問いかけから、私はどこかに旅していたのだ。何かを見ていた気がするが、頭の中がぼんやりする。
「あなたの人生が見えたわ」
その人は悲しそうな顔をしていた。
「あなたがここにいる理由もよく分かった」
そうにっこり微笑んだその人を見ていると、ほんの少し心の奥に炎が灯ったような気がした。
暖かい。そんなことを感じたのはどれくらいぶりだろう。
ぼんやりと見ていると、その人の背後に、ゆらゆらと白い光が現れた。あれは何だろう。
「私ね、あなたの人生を見ていたら、ひいおばあちゃんの話を思い出したの。
ひいおばあちゃんの家はとても貧しくて、食べるものも着るものもろくになくて、生きているのが大変だったって。よく聞かされた。
私が小さい頃のことだから、あまり覚えていないんだけど。
でもひいおばあちゃんがよく言っていた言葉は覚えている。生まれてしまったから、生きるしかないんだって」
その言葉に反応するように、彼女の背後の光は強く揺れた。まるで私に何かを語りかけているみたいだった。
「だからね、あなたには成仏してほしいの。空に上って生まれ変わって、今度は幸せになってほしいの」
そう伝えられ、私は驚いた。
成仏してほしい?
言葉の意味をゆっくり考えて、ああ、私は死んでいるんだと思った。
そんなこと考えたこともなかった。生きているのか死んでいるのか、そんなことどちらでも良かったから。
空に上ってと言われた私は、顎をゆっくり上昇させる。そして本当に久しぶり空を見上げた。遥か遠い昔に、北の国に連れてこられる途中で見上げた空と同じ、青い空だった。
ああ…空が青い。
それに…お日様が光っている。
いったいどれくらい長い間お日様を見上げたことがなかったのだろう。
そう思った瞬間だった。
私の体はどんどんお日様に向かって上昇しはじめる。どこまでもどこまでも昇る。池も小さくなり、やがてあの人の姿も見えなくなった。
どこまでも昇っていくと、真っ白い光の世界に着いた。あの狭い部屋で見たのと同じ光だ。ここは雲の中なのだろうか。
「お龍(たつ)」
そう呼ぶ声がした。それはとても懐かしい声だった。
ああ、そうだ。私の名前は龍だ。
「こどもたちには生まれ年をそのまま名前につけたんだ。そうしたら生まれた年のことは忘れないだろ」
父さんがそう言っていたっけ。
声がした方を振り返ると、母さんがそこに立っていた。離れ離れになった日と同じ姿のままだった。
「ごめんな。お龍。おいしいものをたらふく食わせてくれるって。きれいな服を着せてくれるって。そんなの嘘だって、ほんとうは違うって母さん知っていたんだ。だから本当に…ごめんな」
母さんはそう言って両手で顔を覆う。
「母さんは私がくるのを、ここでずっと待っていてくれたの? 」
私の問に答えず母さんはただ泣いていた。
私は母さんのそばに歩み寄り、顔を覆っている手の上に両手をそっと乗せた。
「母さん、ずっと待たせてごめんね」
母さんは覆っていた両手をゆっくりと下におろした。
「お龍」
母さんが私を抱きしめてくれた。母さんの腕の中は、暖かくて柔らかだった。
「母さん、会いたかったよ」
そう声に出したら、涙がどんどん溢れてきた。涙が頬を伝い、首から胸に落ちていく。涙が通ったあとにはぬくもりが蘇る。
生まれ変わりたい。今度こそちゃんと生きて、幸せになりたい。初めて、「人生を生きたい」と思えた。
母さんの顔をしっかり見る。
「母さんも早く生まれ変わって。そしてまた、私を産んで」
母さんは目を見開く。
「私、またお母さんの子供に生まれたいから」
「お龍…」
強く抱きしめられながら、ああ、そうだ。こんな風に誰かのぬくもりを感じたいと、ずっと思っていたんだ。
その光の中で、美しい女神様のような存在を見た。きっと池の中にいた女神様だ。女神様は優しく微笑んでいた。
胸のあたりから、暖かい光が溢れてくるのを感じた。自分の体が光とひとつになっていく。抱きしめてくれていたはずの母さんのぬくもりが消え、その姿も見えなくなった。光だけが世界の全てになり、私の意識も消えていく。
光の粒子の中に溶け込みながら、幸せな気持ちでいっぱいになる。
静寂だけがそこにあった。
どれくらい時間が経ったのだろう。暗闇の中にいるのだと感じた。でもそれは悲しい暗闇ではなく、どこか清々しくもある暗闇だった。その証拠に私は怖くなかった。
誰かの声がする。その声がする方に進んでいくと、彼方に小さな白い光が見えた。その光に吸い込まれるように進むと、暗闇が螺旋状になりやがて渦になる。その渦はどんどん狭くなった。少し苦しかったけれど、私はくじけなかった。あの先にもっと輝く場所があるとわかっていたから。
やがて小さな光は大きな光になり、とうとう光が世界の全てになった。
私はまぶしくて目を閉じた。
誰かが言った。
「生まれてきて、おめでとう」
あれはあの人の声かもしれないと思った。だけどそれが誰だったのか、曖昧で思い出せなかった。
「やっと会えたね」
優しくそうつぶやく母さんの声がして、光の中で大声で泣いた。
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