欲望と衝動

1/1
前へ
/1ページ
次へ

欲望と衝動

 異常なまでの胸の高鳴り。緊張感。羞恥に満ちたこの鼓動が、あなたに伝わってしまうのではないでしょうか。  空気の音すら感じられるこの静けさの中。恋愛関係にもない男女が、ましてや今日会ったばかりの男女が、ベッドで隣り合っている。過敏になり過ぎた全身の神経。身動きひとつしようものなら、神のような存在の何かに、いや、悪魔のような存在の何かに命を奪われてしまうのではないかと勘ぐってしまう。 「ふぅ」  天井に向け、微かに息を漏らしてみる。  隣で目をつむる女性は、こんな僕に、泡沫の期待を寄せているのでしょうか。僕と同じように何かしらを想望し、胸を高鳴らせているのでしょうか。  彼女からのシグナルがひとつでもあれば。欲望を具現化した信号さえ発してくれさえすれば、僕はいつだって暴徒化できる。あなたの欲を満たすだけの獣へと化けることができる。  ほんのすこし、その指で、僕の身体のどこかに触れてくれるだけでいいのです。僕のほうに向かって寝返りをひとつ打ってくれるだけでいいのです。それだけで僕は、それがあなたの意思表示だと解することができる。たったそれだけでいいのに。  真夜中の静けさはさらに増し、体内を巡る血液の音までもが、グワングワンと脳内に直接訴えかけてくる。  だめです。だめです。僕から何かしらのアクションを起こすなんて、そんなことだめです。できません。できやしません。  と、その時、彼女の指と僕の指が、微かに触れた気がした。えっ、今、本当に触れたのでしょうか? 確証はあるだろうか。そして、仮に触れたことが事実だとしても、それはあなたの意思によって動かされたもの? あなた自らがこの世界の均衡を乱したのでしょうか。それとも、僕の淫猥な欲望が――彼女の指に触れてみる――という愚行を働かせたのでしょうか。  これは大いなる問題だ。環境問題だの少子化問題だの、地球や社会が抱える問題なんかちっぽけ。比にならないほどはるかに大きく、はるかに切実な問題だ。彼女から? それとも、僕から?  肌の感覚が、彼女の存在をより浮き彫りにさせた。その結果、僕の脳は冴え渡った。  問題解決に必要なことは何かご存知だろうか。そう。仮説を立てること。そして、それを検証すること。  よし、彼女のほうから指を触れてきたと仮定しよう。彼女は何らかを求めていて、彼女が望むものを提供しない僕という臆病者にしびれを切らし、とうとう彼女のほうから意思表示してきたという仮説。  検証方法は、こうだ。  僕は大胆にも、片足をモゾモゾと動かした。もちろん、彼女と接しているほうの足だ。  人が眠っている際に見せる動作の中でも、ごくごく自然な動作で。掛け布団と身体が長時間密接していたことによって、体感温度の高まりを不快に思い、まだ触れたことのない掛け布団の領域に、涼を求めて足を移動させるような素振りで。  あまりにも大胆に動かしたものだから、僕の足は、彼女の足と無邪気に擦り合わさってしまった。 「ひぃ」  不覚にも声が漏れた。  これまで一度たりとも女性という存在に触れたことのない――母親は除く――そんな僕が、生身の女性に触れた。触れてしまったのです。  明らかに性的な何かが、脳内から分泌され、全身へと駆け巡る。愚かにも身体のあちこちが反応していることを自覚した。その感覚は、世界の終わりを予感させるのと同時に、この世の始まりをも感じさせたのです。  さぁ、検証だ。  さぁ、どんな答えが出る。  今の僕は、博士だ。  研究結果を見守る義務がある。  論文を書かねばならん。  そして、世間をアッと驚かせねばならん。  彼女はどうする?  僕の幼い触手に触れて、彼女はどう反応する?  その答えは無惨なものだった。しかしある種、期待どおりのものだった。  彼女は微動だにしなかった。結論、僕に何ひとつ期待していなかった。僕なんて不必要な存在。この世に生きていようがいまいが、彼女にとってはどうでもいい存在。虫けら以下。害虫以下。消えろ。消えてしまえ。彼女の望みは、きっとそうに違いない。  あっ、そうか!  ふと我に返った僕は、窓から射し入る月明かりを味方につけながら、大胆不敵にも掛け布団を蹴り上げた。そして、血液が全身から脳に向かって暴走するのを感じながら、仰向けの彼女に馬乗りになった。 「あなたが悪いんだ!」  馬乗りになったまま、僕は彼女の両肩を掴み、揺らし続けた。それでも彼女はぴくりとも動かない。  すべてはあなたが悪いのです。  あなたの部屋に忍び込んだ僕を見るや、大きな声で叫び出したもんだから。僕の密やかな願いが打ち砕かれるのをおそれ、僕はあなたの首に手をかけたのです。  締めて、締めて、ついにあなたは動かなくなってしまった。  目を閉じ、横たわるだけの存在に成り果ててしまったのは、あなたのせい。あなたが抱く欲心、欲念、欲望の意思表示ができなくなってしまったのは、ぜんぶ、あなた自身のせいなのです。  最後にもう一度だけ、彼女の指に軽く触れてみた。やっぱり正常に巡る脳内からの分泌物と身体のあちこちの反応。高鳴る胸の鼓動を悟られることに怯えながら、そっと掛け布団を彼女にかけた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加