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3.隔絶
不意に、肩を叩かれる。
『何かあった?』
振り返ると、耕平は心配そうな面持ちで両手を動かした。手話を読み取って、ハッとする。野菜を切る手が、いつの間に止まっていたのだ。表情は少し固いけど人一倍優しい彼は、何かある度に私を気にかけてくれる。
夫を安心させるために、私は微笑んで首を振った。
『ううん、何でもないよ。ちょっと物思いに耽っていただけ』
包丁をまな板の上に置いてそう伝えると、耕平は安堵するように嘆息した。この無音のコミュニケーションは、特別感がありながらも、同時に不安になってしまう。何故ならかつて補聴器から聴こえた偽物の音みたいに、手話で伝達する想いも偽物であるように思えてしまうから。
だから、胸の辺りに見える彼の「想い」もたまに疑わしくなってしまう。
夫の愛の証明であるはずなのに、偽物のように感じてしまう。あまりにももどかしくて、じれったくて、疑心暗鬼な自分が余計に嫌いになる。
『料理中に呆けるのは危ないぞ? もし体調悪いのなら、俺が代わろうか?』
手の動き一つ一つに優しさが滲み出ている耕平の言葉に、私は少し泣きそうになる。でも本当に涙が出るわけではないし、泣いたところできっと彼を困らせるだけだった。
『不安にさせちゃってごめん。でも大丈夫だよ。もし何かあったら呼ぶから』
『そうか……でもあんまり無理はするなよ』
台所から立ち去る間も、耕平の不安そうな眼差しが離れてくれない。自分にもっと頼りがいがあったら……そんな願いもないものねだりで終わることを、私は自覚している。
いや、違う。私が普通の人間でいられたなら、想いを共有できたはずなのに。
こんなもどかしい想いをしなくて、済んだはずなのに。
声と声とで、きちんと理解し合えたはずなのに。愛を確認できたはずなのに。
結婚までしているのに、どうして愛を信用できないのだろう。
鍋の中に切った野菜を入れながら、私は声にできない叫びを呑み込んでいた。沸々と泡立つ熱湯がこの想いを代弁しているように見えるのは、ただの思い上がりなのだろうか。
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