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7.緑青
そうだ。自分が一番解っていたはずだ。
制作七日目。夫の目を盗んで、あれでもないこれでもないと向き合い続けた粘土の像も、ようやく自分の望む形に近づいてきた。この葛藤を毎日のように経験している、耕平を始めとするクリエイターの偉大さが改めて身に染みた。
コップの水を指先で触れて、少しずつ形を整えていく。最悪、表情は精密に作らなくていい。あの時みたいに、外見でインパクトを出そう。胴体の捻りは敢えて人間離れさせる。メインとなる心臓を包み込むようにして……髪は長く毛先を遊ばせよう。
限られた時間で膨らんだアイデアと、長年外に出せず困っていたこの「想い」を作品に出来る限り多く抽出する。耕平が「想い」を分け与えるように、丁寧に掌で固めていった。
そうして最後に、頭部に粘土の花飾りを取り付けたところで。
耕平が工房から、帰ってきた。
『おかえりなさい。一つだけお願いがあるんだけど……大丈夫?』
彼は不思議そうに首を傾げたものの、すぐに『いいよ』と返してくれた。ほっと胸を撫で下ろして、私はテーブルの上の作品を指差してから、伝えた。
『この作品をね、今度でいいから焼き上げてほしいの。耕平くんの作ってるところ見てたら、私も作りたくなっちゃって』
少し小恥ずかしくなりながらも、私は最後まで手を動かした。
その返答は……返ってこなかった。
不思議に思い、私は首を傾げて耕平の顔を覗き込んだ。
覗き込んで、ハッとした。
耕平は今までにないぐらい目を真ん丸に見開いて、しばらくその場に立ち尽くしていた。驚いたようでいて、自分の殻が一気に剥がれたような、そんな表情を浮かべていた。安堵感、と表現するのが一番適切だろうか。
そうしてしばらく感情を噛み締めていた耕平は、私の方を見て、ふっと笑った。その乾いた頬に、一滴の涙が伝って、床に零れ落ちた。
『……いつも、言ってくれるよね。作品に込められた想いを見ることができるって。その気持ちが、ようやく解った気がする』
涙を拭って、彼は言葉を続ける。
『俺、不安だったんだ。夫として以前に、麗華を幸せにできているかって。愛を伝えることができてるかって……』
何度も、何度も頷いた。耕平に釣られたからか、それとも内側で張りつめていたものが一気に吹っ切れたからだろうか。自然と涙が零れ落ちる。
『そっか……ちゃんと伝わってくれていたんだ。愛していて、くれていたんだ。俺、不器用だし、手話が上手いわけでもないからさ……本当に不安だったんだ。ありがとう……ありがとう』
……気づいた時には、耕平を強く抱きしめていた。
全身を包み込むには背丈が足りないけど、それでも強く抱きしめた。彼の長袖のシャツに涙が滲んで、染み付いていく。
──私こそ、ありがとう。
想いのままに、私は叫んだ。
発音も音量も、普通とは違う声で。
──私を愛してくれて……ありがとう。
久しぶりに、世界に「音」が染み付いた。
微かな変化だし、シャツの染みみたいに大したものじゃない。
けど……それだけで十分だった。
テーブルの上には、私が初めて「想い」を込めて作った作品が置かれている。身体の柔らかい女性が、大きな心臓を全身で受け止め、優しく包み込んでいる。「愛」をテーマにしたその像に、まだ名前はない。
題名なんてどうでもいい。
私はただこの想いを伝えるために、この作品を作ったのだから。
風化して緑青に染まっても、色褪せることのないこの「想い」を。
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