1.逃避

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1.逃避

 物心ついた頃には、鼓膜が痛む程のこの静寂が、私の世界の理になっていた。  夫が趣味の範疇で設置した囲炉裏の火も、まな板と会話する包丁も、庭園の木々を揺さぶる木枯らしも、誰も私に話しかけてくれない。まるで、私だけこの世界から隔絶されたかのように、一人静寂な世界を生きている。  そんな音が無く、視界すらも黒に染まりそうな世界で、ただ一つ私を支えてくれるものがあった。  今まで視認してきたどの「想い」よりも温かくて、ハッキリとした色をしている。生き生きと炎を滾らせて、火の粉を散らして、目が眩む程の光を発している。外面はおとなしくて感情を表に出すことを苦手としながら、胸の内ではこんなにも明々と想いを輝かせている。自分だけでなく、私にも道を差し伸べてくれるかのように。  上手く言葉を操れない私は、手話でしかコミュニケーションを取れない。だけど、手の動きだけで想いを全て伝えられるほど器用でもない。  だから上手く言葉に表せないけど、確かに私は夫を──耕平を愛していた。  彫刻家である彼が想いを分け与えるどの作品よりも、深く愛していた。  だけど、同時にもどかしかった。他の人と同じように普通に話せて、普通に愛する人の言葉を受け止められていたのなら、どれほど楽だったか。  だから私は、夫の作る作品に縋る形で、逃避していた。  夫の作る作品から「想い」を読み取って、彼の心の内を知った気になっている。  そんな自分が、私を孤独の世界へと追放するどの存在よりも、恨めしかった。
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