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「ごめんね冬子」
それは中三の夏頃に言われた言葉だ。
日和はわたしと同じ高校へ進学するとずっと話していたのに、翌年の四月に海外へ引っ越すことが決まっていた。
日和のせいじゃないし、謝ることなんて何もない。
「ううん、大丈夫だよ。高校へ行ったらさ、友だちの一人や二人、すぐに出来るから。そんなに心配しないで」
それはわたしなりの精一杯の強がりだった。
日和がいなくても、わたしはちゃんと人と接することが出来るはずだ、と。
でも、いざ学校が始まると、わたしの口元は貝のように固まってしまった。
隣に座る子や、前後に座る女の子から何度か話しかけられたことはある。それは些細なことだったはず。
次の授業ってなんだっけ?
ごめん、消しゴム貸してくれない?
昨日のドラマ見た?
そのいずれの質問にもわたしは反応をすることが出来なかった。
頭の中では何を言えばいいのかがぐるぐると駆け回り、言葉が現れては消えていく。
「……あ、えっ、あの」
わたしの拙い反応を見て彼女たちは、「ごめん、なんでもないわ」と言って離れていった。
どうしてなんだろう。どうしてこんなにも人とうまく話せないのか。
そう思えば思うほど相手の反応が怖くなり、言葉が出てこなくなる。
そうして結局わたしはいつも一人だった。
お昼は教室から出て静かな場所を探した。
校舎裏や屋上へ続く階段の踊り場。体育倉庫の裏なんかも行ったのだけれど、最終的に落ち着いたのがこの北館三階のトイレだ。
この場所はいい。
定期的に誰かが掃除をしてくれているからか、ある程度は清潔に保たれているし、何より物音がしない。
生徒たちの笑い声や楽しげな声は全く聞こえなくて、個室に入ってしまえば閉ざされた別の空間の中に入ったような感覚になる。
もうずっとここにいて、ここで授業を受けたい、そう思うぐらい。
でもそういうわけにもいかず、時間が迫ってくればトイレを出なきゃいけない。
描いた落書きを消しゴムで消して、消しカスも床に落ちないように手のひらで受けながらそれを便器の中へ捨てた。
最後にレバーを捻ると、水が勢いよく流れていく。
午後の始まり。嫌な嫌な午後の始まり。
鞄を肩に掛け、トイレを出る。教室へ向かう足は重かった。
C組のドアをガラガラと開けると、何人かがわたしの方を見てすぐに視線を戻した。
脇汗が滲み、心臓が締めつけられる。
彼女たちの鋭い目つきが頭に残り続ける。わたしは下を向きながら自分の席へと移動した。
誰も寄ってこないし、誰もわたしに話しかけてこない。
鞄を横に掛け、机に突っ伏して顔を隠す。
ああ、早く帰りたい。もう嫌だ。時間があっという間に過ぎてくれればいいのに。
次の授業が始まるまでのこの数分がやけに長く感じる。両耳から入ってくる女子たちの声。聞きたくないのに、聞こえてしまう。
でさー、え、うそ、まじ? ウケる、え、ちょっと待って、うそ、信じらんない、あははは、やば、ははははは。
何の話をしているのか、誰のことを言っているのかわからない。それが自分のことなのかどうなのか。
やがてチャイムが鳴り、顔を上げる。
ようやくわたしの心は落ち着きを取り戻し、授業へ意識を向ける。
毎日はこんな風に過ぎていく。
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