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第一話 まちに待った婚約破棄です
婚約破棄とはすべての縁をぶった斬る行為である。決して公然とおこなってはいけない。
そのお相手が、王太子であってもだ。
「ヴィルホール、きみとの婚約を破棄する」
自分の名前が呼ばれたとたん、そんな暴言を投げつけられた。
お決まりの文句に、おれは歓喜に満ちた。
——やっとだ。やっと解放される。
突然の知らせだが、おれにとってはそうじゃない。
待ちに待った名シーンがやってきたのだ。いや、だめだ。せいては事を仕損じる。まずは落ち着け……、とおれは拳から力を抜く。焦りは禁物だ。完璧にやり遂げなければならない。それでも鼓動は早鐘のように脈打ち、頬は熱く感じてしまう。
おれは視線を伏せた。そしておもむろに口をひらいた。
「婚約破棄、ですか……」
このシーンは鮮烈に憶えている。
なんどもバグが発生し、上申書を書いて徹夜した記憶もある。いや、そうじゃない。
いまはおれ自身に集中するべきだ。
おれの出で立ちはというと、シャツは襟元までボタンをとめて完璧そのものだ。頬には一筋の傷が斜めにはしり、地味な顔を目立たさせている。
今宵は最も格式の高い日。
シャンデリアには魔力が宿るといわれる魔法石が煌々と輝きを放っていた。今、王立魔法士官学校の叙任式が終わり、盛大な祝宴が催されていた。
教師陣と成人となった生徒たちが祝杯をあげ、五年という月日を終えて、皆が卒業を祝していたところだ。
まさに祝福にみちたとき……。に、これだ。
「ヴィル、そうだ。婚約破棄だよ。ぼくはね、きみを見損なったよ。バース性がベータのせいかもしれない。やっぱり、アルファとベータは一生を共にすることはできないとやっとわかった。やはり、ぼくの相手はオメガだけだ」
アルベールの翡翠色の瞳が鋭くなり、声は一段と大きく響いた。
凛として低く、冷ややかな侮蔑がこめられている。
いまさら、こいつはなにをいっているんだ……と思ったが、決して口にだしてはいけない場面だ。
もちろん、笑ってもいけない。
「…………殿下。さしがましいとは重々承知で申し上げますが、一体これはどういうことでしょうか?」
すうっと深く息を吸って、おれは言った。ゆっくりと、ちいさな子どもを寝かしつけるようにだ。
それが気に食わなかったらしい。アルベールのきりりとした顔に厳しさが増す。
「ヴィル、きみも十分にわかっていただろう。いいかい? アルファとベータは結ばれることはないんだ。まして番いにもなれない」
「……つがい、ですか」
その言葉を聞いて、おれは、はあ……とため息をついてしまった。ほんと、はぁ……しかでないあたり残念だ。予想どおりのセリフにあきれているのもある。
もちろん、この大惨事に周囲にいた生徒や教師たちは婚約破棄という言葉に忙しくざわめきたっている。シャンデリアが白い光を投げるなか、おれたちに視線が集中しているのは痛いほどわかっていた。
おれは一呼吸して淡々としゃべる。
「つまり、この世では珍しい光魔法という魔素をおもちで、さらに男性でありながらバース性がオメガで、かつ運命の番いと出逢った。そして、ベータで魔力を持たない婚約者の私に別れてほしいと?」
「…………その通りだよ。さすがヴィルだ」
アルベールは深く頷いて応えた。
品のいい整った顔も台無しだ。怒りの真骨頂ともいえる顔でぴくぴくと口元が痙攣している。いや、怒るのはおれのほうであって、そっちじゃない。
「殿下、このような場で冗談が過ぎます」
「冗談ではない。僕は本気だ」
ああ、だめだ。
やっぱり、こいつ、本気で言っていたのか。
ジョークならまだ笑えるというのに。
おれという婚約者がいながら、いまこの瞬間に他の男と指を絡ませてぎゅうぎゅう握りあっている。信じられない。
ふたりは魔法に立ちはだかる勇者と神子のように身体をよせあって、仲のよろしさをアピールしていて、おれは魔王のようにたちはだかる。
「アルベール……ぼく、どうしよう」
「エルミーヌ、大丈夫だ。怖がる必要はない」
「……アルベール」
「……エル」
二人は顔と顔を見交わす。
このふたりのカプ推しならば、最高のシーンだと思う。おれの存在がこの場をマックスに盛り上げ、いかにも悪にたちむかう結ばれたふたりという感じだ。
残念、おれにとっては地雷カプそのものだ。
いや、そうじゃない。いまこの瞬間に断罪ルートを回避すべく、おれはありあまる頭脳をふるに使って、生き残るために乗り越えなければいけない。
「承知いたしました。ただ……」
ついっと考え、おれは訝しげに頭をかしげた。いいぞ、この調子だ。
ものすごい数の視線がおれたちにむけて、誰もがゴシップ記事の恰好のネタを聞き逃すまいと静かに息をつめる。それでも弁論大会で王党派カルト教団の陰謀論を演説するよりはマシか。
「……ただ?」
「ただ、この場に公証人がおりませんので、正式な破棄は後日お受けいたします」
「ごじつ?」
ぴくりと整った眉根が動いた。アルベールの美貌がゆがんで、恨めしげな視線を流した。なにを言っているんだという顔つきだ。
いやいや、おまえこそという顔でおれも見返す。
「ええ。まさかとは思いますが、殿下一人の独断で、婚約破棄ができるとお思いではないですよね。婚前契約書にも書かれておりましたとおり、細かな取り決めがございます。もちろん持参金も返していただきますし、この件についても王陛下に報告をしなければなりません。そして……」
おれはまっすぐと眼差しをむけ、二人を眺めた。
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