11人が本棚に入れています
本棚に追加
春の風と恋の矢
明治17年の晩春。
常城神社の森は宮司がほどほどに管理をしていたが、それでもこの季節は落葉樹が降り落ちその境内は鬱蒼としていた。その中で男女が、厳密に言えば女がしゃがみこんで木の実やきのこを拾い集め、男がつまらなそうにそれを眺めていた。
「凛。そろそろいくぞ」
「広道様、お待ちください。あ」
広道が小さな木の根につまずいた凛を抱き止めれば、草木の香りがふわりと漂う。すみませんと謝る凛を押しとどめ、空を見ればわずかに陽は傾いていた。自然と広道の眉根に深い皺がよる。予定より随分時間が推している。
「そろそろ帰らねばならん。夕飯の用意に間に合わぬだろう」
「大丈夫です。本日は牛の煮込みですでに仕込んで御座いますし、その他の副菜も全て完成しておりますので、配膳するだけです」
凛は久我山医院の料理番だ。毎日40人分ほどの料理を作る。それを一手に引き受けている。それなりに大仕事だが、凛はその仕事が好きなのだ。だからその仕事は全く苦にならない。いつもなら下ごしらえなどに大わらわなところ、たまたま久我山家次男の広道が帰宅していたものだから、その日の献立を煮込みと簡単な前菜に変更して連れ出してもらっていた。見方によってはデートというやつだ。
広道は無言で凛の手を引き、足元に石があるだの段があるだの注意を与えながら手水舎まで導き、袖をまくらせた手に柄杓で水をかける。
「ありがとうございます」
「構わん。今日はもう終わりだ。そろそろ俺の目も効かなくなる」
「あら。そんなに時間が経ちましたか」
「おそらく四時すぎだろうが、戻れば陽は落ちているかもしれん」
凛は手ぬぐいを使いながら、ふふふと微笑んだ。
「医院まで戻れば私ができますので」
広道の険のある目元を見えていない凛は、そのように答えた。けれども広道はそれも気に入らなかった。
最初のコメントを投稿しよう!