酩酊運転

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 視界の端を流れていく街灯の明かりを見送りながら、私は車のハンドルを握る。すれ違う対向車の(まばゆ)いライトに目を細めながら漠然(ばくぜん)としたままフロントガラスの向こう側を見続けていた私は、ふと視線を真横の窓の外へと向ける。ずいぶんと街から離れた見晴らしの良い山道を走っている。  遠くに見える街の明かりは、寒々とした空で(きら)めいている星に比べるとなんて下品なんだろうか。ついさっきまで自分自身がそんな下品な明かりの一部だったと思うとため息が零れてしまう。    景色の一部……のみだけであればどれだけ良かっただろうか、実際には社会の歯車となり毎日が同じことの繰り返しだ。順風満帆といえば聞こえはいいが、結局の所はただの予定調和であり私が心の底から嫌っているトラブルですら私の人生に微塵の波すら立たせない。  ネガティブな思考に一度至ってしまうといつまでもズルズルと引きずってしまうのが私の悪い癖だ。    気分を変える為にカーラジオを付ける。スピーカーからはラジオパーソナリティの馬鹿笑いと人を虚仮(こけ)にしたような効果音が鳴り響く。いっそすぐにラジオを切ってやろうかとも思ったが、このままネガティブな思考の海を漂い続けるよりかはまだマシだと思いそのままラジオを聴き続ける。    雑木林に差し掛かり、あの(うるさ)い夜景が見えなくなった頃にラジオからリスナーがリクエストした曲が流れ始めてきた。静かなさざ波のようなイントロから、窓を開け放ち視界が光に塗りつぶされた次の瞬間には緑の地平線と永遠に続く青い空が広がっていたかのような解放感のある……それでいてどこかノスタルジックで不思議な幻想のような曲調へと変化した。    ラジオパーソナリティーが述べる作曲者の名前にはまったく覚えは無かったが、その曲は私の心を鷲掴みにした。まるで魔法にかけられたかのように体は自然とリズムを刻む。ふと空を見上げれば正面に青々とした大きな満月が浮かんでいる。ついさっき思い浮かべていた空想の世界に迷い込んでしまったかのようだった。  数分前まで陰鬱(いんうつ)な気分に沈んでいた私はいつのまにか夢に溢れた少年のように心を弾ませている。流れてくる軽快な音色に合わせて口遊(くちずさ)めばついさっきまで悩んでいた事がまるで嘘かのように晴れやかな気分になる。    窓の外には流れる雑木林の間からまた相変わらず眩しい光を放つ街が顔を覗かせた。さっきと見た明かりと同じ筈なのに今はどこか幻想的に夜を彩っていた。    私は呆れたようにため息を吐いた。結局の所、世の中なんて考え方次第なのだ。真理などというのはきっとシンプルなものに違いない。例えばどうだ、さっきまで面白みも無く、くだらないものにしか見えていなかった世界がたった一曲の音楽とガラス越しに見える狭い景色だけでガラリと形を変えた。モノクロでどうしようもなくリアルな世界は色鮮やかで希望に満ちたファンタジーの世界へと至ったのだ。    どす黒く濁ったドブのようだった私の心はどこまでも澄み渡る清々とした青空のように鼓動していた。  人生の転機なんて分からないものだ。今日のこの瞬間こそまさに天からの奇跡に違いない。私は今日から生まれ変わるんだ、くだらない現実に縛られるのは止めて夢に生きよう……自然とハンドルを握る手には力が入り、アクセルを深く踏み込む。流れ過ぎ去って行く景色を横目に迷い人を導くような月明かりに照らされた道路をグングンと進んでいく。    すると晴れやかな気分に水を差すように視界が塗りつぶされた。パトカーのライトと赤青の回転灯が周囲の月明かりを蹴散らしている。どうやら飲酒検問のようだった。    警察官の誘導通りに素直に車を停車させると警察官の一人が運転席へと近づいてきたので窓を開け放つ。その瞬間に呂律の回っていない男の怒声が車内に飛び込んできた。大方、まんまと検問に引っかかった愚かな酒気帯び運転者だろう。  「お疲れ様です。お手数ですがご協力をお願いします」  警察官は爽やかな笑顔を浮かべたまま、手に持ったアルコール検知器をこちらに向ける。私は「分かりました」とだけ答えてアルコール検知器にふっと息を吹きかける。警察官は「どうも、ありがとうございます」とアルコール検知器を引っ込めてその画面に視線を向ける。それから数秒も立たないうちに再びこちらに顔を向けなおすとまたニコニコと笑顔を浮かべた。  「はい、問題ありません。ご協力ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」  「どうも」  警察官に向けて軽く会釈を行い、窓を閉めようとすると警察官が思い出したかのように私を制止させた。  「何か?」  警察官の不審な行動に私が怪訝な顔を浮かべていると、警察官は車内をのぞき込むようにして見回してからもう一度私を見て口を開く。  「運転手さん、今回は許容範囲ですけど今後は酔って運転するのはやめてくださいね」  「一体どういう事ですか? 私は飲酒なんかしていませんし、そもそもさっきの検査でアルコールは検出されなかったんですよね?」   警察官の言っている事が理解できず、その理不尽な内容にはむしろ怒りより困惑を抱く。私はその言葉の意味が分からないままにやや強めの口調で聞き返す。肌を撫でる回転灯の明かりが(わずら)しく思えた。  「いえ、アルコールは問題ありませんでした。ただし……運転手さん。貴方は雰囲気に酔いながら運転していましたね? 気持ちはよく分かります、こんな世の中では自分の世界にでも酔わないとやってられませんよね。今じゃアルコールよりもそういった自分だけの世界に酔って溺れる人が増えすぎてそれが原因で事故の件数が爆増してるんです。先日、雰囲気酔いによる酩酊運転に罰則が設けられたのはご存じでしょう? 理想の世界に酔うのも決して悪い事ではないんですが、それよりも現実の方が大切ですからね。夢や理想に溺れず、しっかり地に足を付けて生きてくださいね」  「……はい、気を付けます」  「はい、お呼び止めして申し訳ありませんでした」  警察官は相変わらず爽やかな笑顔を向けて見送ってくれた。私は警察官の言葉にすっかり現実に引き戻され、先ほどまで車内を満たしていたあの幻想的な雰囲気は影も形も無くなっていた。  私はため息を一つ吐いて、すっかり酔いの覚めた目で前をまっすぐ見てハンドルを強く握り、自宅まで車を走らせるのだった。
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