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 朝から耳にするにはスムージーミキサーの音というのは何とも耳障りだ。それでも料理が得意とはいえない冴木吾朗(さえきごろう)にとって、彼の妻の健康の為にはこれが一番手っ取り早く、しかも美味い。何度かボタンを押し、なるべく細かく潰れるように確認しながら、吾朗はこの生活がもう三年も続いているのだなと、一人口元を緩ませる。 「吾朗しゃん」 「ああ、ごめん。起こしちゃったか。おはよう、瑠那(るな)」 「ううん」  足元までを覆う薄い白のワンピースのパジャマはネグリジェと呼ぶそうだが、吾朗が買ったものでも、彼女が選んだものでもない。瑠那の友人の飯尾由佳(いいおゆか)からの結婚祝いの一つだった。よく見れば裾がほつれてぴょこんと糸が垂れていた。足を引っ掛けないように繕わないといけないと思いつつも、裁縫も苦手な吾朗の中ではどうしても優先順位を下げてしまう。 「今できるから」 「うん」  彼女は宙にその細い腕を彷徨わせ、ダイニングテーブルの端を見つけると、それを伝って自分の椅子まで歩き、ちゃっかりと座る。それから既にテーブルの上の皿に盛ってあるものがいつものベーコンエッグだと、匂いを嗅いで確かめていた。彼女はオムライスにハンバーグ、それにカレーライスと、子どもが好きなものが好物で、和食育ちだった吾朗とは少しズレている。  今朝のスムージーはバナナと林檎(りんご)、それにレモン汁が沢山入っている。酸味があまりに強いと彼女が嫌がるものだから、なるべく入れないようにと思うのだが、どうにも塩梅(あんばい)が難しい。今日の出来具合はどうだろう。  と、甲高い音でトースターが焼き上がりを知らせた。その音にミーアキャットのように驚いたのは瑠那さんだ。彼女は耳が良い。とても良い。吾朗が玄関のドアを開ける前にその足音だけで帰ってきたことが分かる。それくらい耳が良いのは、彼女の生活にとって音が欠かせないものだからだ。 「それじゃあ、いただこうか」  吾朗は出来上がったスムージーを大きなコップに二人分注ぎ、それを置いてから、彼女の右隣りに座った。夫婦で対面に座らないことを、会社の事務の上村美保なんかは「新婚みたいだね」と笑うのだが、こういうスタイルになったのもそうせざるを得ないというある事情からだった。    瑠那はまず右手で自分の手前を探る。そこには先割れスプーンがあり、それをぎゅっと握ると、左手でベーコンエッグの皿を探した。その端に触れると自分の方に少し引き寄せ、それからスプーンの先で突き刺す。ぐっと体を前傾させ、そのまま口へと持ち運んだ。半分を噛み千切ると半熟の卵は彼女の口元を黄色く濡らす。けれど満足そうにはぐはぐと咀嚼してそれを飲み込むと「うん!」と美味しいの意思表示をした。  それを見て、吾朗は自分も食べ始める。トーストにはたっぷりと杏のジャムが塗られている。このジャムは塚本課長の奥さんの土産物だった。小さく(かじ)るとその(わず)かな酸味が口の中に広がり、トーストされた食パンの甘みと混ざり合って何とも美味しい。隣を見ると瑠那もトーストに齧りついていたが案の定、口の周囲はジャム(まみ)れだ。それを吾朗は用意してあるタオルで拭う。一瞬彼女は嫌そうな表情をするけれど、それでも綺麗になると笑顔に戻り「ありがと」と吾朗に伝える。    彼女の言葉は貴重だ。あまり普段からそう喋らない。口を開いても「うん」とか「ううん」とか、イエス・ノーの意思表示くらいで、どちらかといえば吾朗があれこれと話しかけることをにこにことして聞いている方だった。それでもこのささやかな時間こそが、吾朗と瑠那にとっての幸せで、日常だった。    そう。冴木吾朗の妻、瑠那は目が見えない。それを承知の上で結婚して三年、大変だけれども幸せと感じる日々を吾朗は過ごしていた。  そのはずだった。 「ねえ、吾朗しゃん。月、聞こえた?」 「え?」 「月、聞こえた」 「聞こえないよ、何も」  時折、こういう訳の分からないことを口走る。吾朗はそれに対して適当に流さず、きちんと答えるようにしているが、最近よく彼女は「月が聞こえる」と言う。演奏会が近づいているから神経が高ぶっているのだろう。この時の吾朗は単純にそう考えていた。
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