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 よほど疲れていたのか、気づくともう外が暗くなっていた。リビングのソファは案外寝心地が良く、吾朗の大きな体が横になっても足以外を受け止めてくれる。  テーブルの上に置いたスマートフォンにはやはり何の連絡もなく、いつになれば彼女の気分が収まるのか、三年間で初めての経験になるからさっぱり見当が付かない。ひょっとするとこのまま離婚へ、なんてことがあるのだろうか。    外に買い物に出る気力も湧かずに棚に隠してあったカップ麺で夕食にすると、シャワーを浴びてトレーナーに着替えた。けれど寝室でベッドに横になったところで眠れるはずもなく、吾朗は瑠那の部屋に入る。まだ彼女が出かけた時のままで、引っ張り出した衣装や下着がそこら中に散らばったままだった。  それを一つ一つ丁寧にハンガーに掛けたり、畳んだりして仕舞い、片付ける。いつもしていることなのに、彼女がいないというだけで随分と早くに綺麗になった。  それに何より静かだ。あまり喋らないと思っていた彼女だけれど、いなくなってみて初めて意外と多くの言葉を交わしていたのだと気づいた。その言葉の意味は理解出来なくても、何かしら感情の交換はしていたのだ。ただそれは吾朗が一方的にそのつもりだっただけで、向こうからすれば何一つ分かってくれていないというストレスだったのかも知れない。それが「月が聞こえる」だったのだろうか。    テーブルの上には今日届いた演奏会のCDの入った封筒が置かれていた。差出人はあの斉藤という若者だ。中にラブレターの一つでも入っているのかと思って開いてみたが『十月演奏会』というシンプルな手書き文字が書かれたCD一枚切りで、メッセージカードも何もない。その上、彼女の寝室にはCDを再生できる機械もない。  吾朗はリビングに行くと、CDプレイヤーにそれをセットし、ボタンを押した。すぐにスピーカーから観客のざわついた声が聞こえていたがそれが収まると、やや籠もった感じの音がすうっと一つだけ鳴らされた。それに続き、様々な楽器が同じ音を鳴らす。これはオーケストラでは当たり前のものらしいが、調音という作業だそうだ。何度か演奏会に参加しているのでその不思議な行為について瑠那に尋ねてみたことがある。    ――あれは音と気持ちを合わせてるの。    音の確認を演奏直前にする必要はない。事前に合わせてから舞台に上がっているのだから、よく考えてみればそうだ。けれどそのルーティーンを行うことで全体に意識の共有のようなものが生まれ、演奏に統一感が生まれる。そんな意味合いなのだろうけれど、吾朗からすればやはり不思議な行為だった。  CDは音だけしか入っていない。無音のこの時間は何かの準備がなされているのだろうが、観客も一言として喋ったりしていない。  その静寂を打ち破るように聴こえてきたのはハープの音色だった。  瑠那だ。  闇の中で、小さな光の粒が降ってくる。そんなイメージが瞬時に浮かび、吾朗はリモコンで部屋の明かりを消した。目を閉じる。  最初は間隔が広かった音が、徐々に短く早くなり、それは小川の流れとなって広がっていく。それを迎えるようにヴァイオリンがそっと音を乗せた。反対側ではフルートだろうか。やや掠れた、けれど心地の良い高音が小鳥の囀りのように遊び、また別の場所ではリスの水遊びのような打楽器の音が響いた。  彼女のハープを中心にして、様々な音が挨拶をする。やがてそこにピアノが合流し、一体となって音楽を作り始めた。  吾朗にはそれが何の曲なのか、オリジナルか、それとも元々ある曲なのか、分からない。けれど耳を澄ませていると次から次へと映像が浮かんでくる。それは不思議な森の中で、楽しげに遊び回る小さな動物たちが少女を取り囲んでいる。その少女の顔は瑠那の若い頃のようだ。彼女は活き活きと笑い、走り、飛び跳ね、小川を上っていく。  丘に出ると空には大きな月が浮かんでいた。    ――月だ。    その月を見上げ、彼女は何かを叫ぶ。それから返事を聞くように耳に手を当てると、もう一度叫んだ。  吾朗も必死に月が何を言おうとしているのか聞こうとするが、何も聴こえない。    ――やはり聴こえないのか。    そう思った時だった。優しい、くすぐるような響きが、耳元に届いた。  月の声だ。いつも地球を向いて優しく見守っている、月の声だ。月は地球を愛していた。月はいつも地球を見ていたけれど、地球もまた月を見上げていた。  その月が囁いた言葉は――あいしてる。  吾朗は再生を止めると、慌ててコートを羽織り、外に出る。大通りに出てタクシーを捕まえると、運転手に慌ててこう言った。 「妻の……瑠那のところに、行って下さい」  飯尾由佳の家の前には、彼女に支えられて出てきた瑠那の姿があった。由佳の服を借りているのだろうか。見慣れない、緑のパーカーと黄色の緩いズボンだ。 「瑠那さん。あの」 「うん」  何か言わなければいけないと思った吾朗のそれを、彼女の優しい「うん」が止めた。ずっと言葉で伝えなければいけないと吾朗は思っていた。でも、よく考えてみればいつだって、彼女は吾朗の声ではなく、音を聞いていたのだ。  月の声は、彼女の音だった。 「帰ろっか」 「うん!」  大きく頷くと、瑠那は珍しく吾朗に駆け寄り、その胸に抱きついた。見上げるとまあるい月が、二人を優しく見守ってくれていた。(了)
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