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(本章のみ読切です)
常に静寂に包まれた珍しいカフェが、三重県いなべ市にある。
桐林館喫茶室と名付けられたこの店舗は、いわゆる「筆談カフェ」と言われるもので、客も店員も店内で話すのは禁止されている。その代わりに筆談かジェスチャー、手話でコミュニケーションをするのがルールだ。
ここでボクは、それに出会った。客によく見えるように、カウンターの後ろに貼り付けてある。
曇り空を借景に、雪化粧した紅梅の花が描かれた掛軸。隆々と生命力をみなぎらせた太い枝が、無垢な白い雪を身に纏(まと)い、空を掴みかかろうと威勢よく伸びている。
幾多の時代を超えて日本人が磨き上げてきた美の結晶が、そこにはあった。ボクは思わず嘆息をもらしながら、一眼レフカメラで撮影する。
ボクは店舗のテーブルに置かれた筆談ノートに(この絵を描いたのは誰?)と書き込んで、そのメモを店員に見せる。すると、店員は二つ隣のテーブルまで小走りし、そこでとびきりの笑顔でボクを手招きした。
そこに一人で座ってスケッチをしていた女性が、俯いたままボクに目を合わせることなく会釈した。その人が作家ということだろう。
掛軸が力強い筆運びだから、作家はベテランの男性だと思い込んでいたボクは驚いた。たまたま居合わせたその掛軸の作家は若い女性、いや、女の子というべきか。
(はじめまして。カメラマンのウラタです)とノートに書いて見せると、その横のスペースに(カナエです)と書いてくれた。
(あの梅、サイコーの絵だね!)と書いて伝えると、今度は書き込まないで、立ち上がって礼儀正しく礼をした。やっぱり目を合わせてくれないが、はにかんで頬を赤らめるその表情は、絵画のモデルのように美人だ。
それからボクたちは、静寂が支配する会話禁止のカフェでコーヒーを飲みながら、筆談ノートを文字で埋め尽くして会話(回文)を重ねた。カナエさんは、ボクよりも7歳下の23歳。本人が言う(書く)には「私は障がい者。聴覚障がいはないけど、話せない」そうだ。
毎月第2土曜に近くで手話サークルの活動をしているカナエさんは、毎回その活動終わりにここに寄って一人でスケッチをするらしい。それを聞いたボクは、それ以後、毎月第2土曜にここに来て、カナエさんと筆談するようになった。
会うたびに、本人の許可をもらって、スケッチする姿をカメラ撮影する。撮影した画像は翌月、プリントアウトしてプレゼントすると、カナエさんは喜んでくれた。ボクはいずれ、請け負っている市の冊子制作でカナエさんを特集記事にしたいと考えていた。
毎月1回、いつも静寂に包まれた桐林館喫茶室で会うようになって3回目の12月。この日、カナエさんはスケッチすることもままならないほど、店の中と外を出たり入ったりして落ち着かなかった。
(どうしたの?)と筆談で伝えると、(そろそろ初雪が降るかな? 分かる?)とカナエさんが天気を聞いてきた。カナエさんは喋れないから、電話機能があるスマホが苦手で持たないらしく、すぐに天気を調べられないのだ。
ボクは自分のスマホで雪雲レーダーのサイトを開いてカナエさんに見せる。すると、あと10分ほどで、この街が雪雲に覆われることが分かった。道理で冷え込むはずだ。
(雪、好きなの?)
(うん)
(じゃあ、今からボクの車で、雪、見ない?)
(いいの? ヤッター)
会計を済ませて店を出ると、カナエさんはボクの車の助手席に座った。二人きりで外に出るのは初めてだ。
ボクは店の近くにある広場に車を移動して、遠くに鈴鹿山脈の藤原岳が真正面に見えるポイントに駐車した。
ここは店の外だから、声を発することが許される。
「ここで、いい?」
初めて筆談ではなく、声で話しかけてみた。すると、カナエさんは頷く。本人の言うとおり、耳はしっかりと聞こえているようだ。
二人きりになって、やっとカナエさんはボクと目を合わせてくれるようになった。そしてボクたちはその時を待つ。
時間は、午後3時過ぎ。
降っていた雨が、やがてみぞれに変わった。カナエさんは、空を食い入るように見つめている。
すると、みるみる鉛色の雲が山から広がり、ようやく白い粒が舞い降りた。雨が雪へとグラデーションを描いて変わる様子は、神秘に満ちていた。
その時をやっとの思いで迎えたカナエさんは、車の外に出て、傘も差さずに掌を天に掲げる。雪の感触を確かめ、受け止めているようなその姿は、雪の妖精そのものだった。
ボクはカメラを構え、その妖精をファインダーで確認して夢中でシャッターを切る。
「そういえば、あの掛軸の梅の絵も、雪化粧していたね! どこの景色?」
カナエさんは首をかしげ、上着のポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。
(ヒミツ)と書いて、悪戯な笑みを浮かべる。
「えー、知りたいよ。もっと、カナエさんのことが、あの、……し、知りたい」
(じゃあ、今度そこに一緒に行く?)
「うん」
(じゃ、その時に場所を教えるね)
「なんで雪が好きなの? それもヒミツ?」
すると、カナエさんは考えながら、メモ帳に長い文章を書き込んでいる。
(この雪も、私の障がいとか、絵にのめり込む特性も、全部、神様からのギフト。だから大切にしたいの)
そして、このメモを見せてボクに微笑みかけた。気が付いたら隣に立つボクとカナエさんの腕が接していて、心臓が高鳴る。
(ウラタさんが神様から受け取ったギフトは、素晴らしい写真を撮る才能?)
その質問は、ボクの心に刺さった。
「うーん、ボクはカナエさんのような才能を神様からギフトしてもらってないよ」
ボクの答えを聞いて首を何度も横に振る。
(違う。この雪みたいに、皆にギフトされてる。私は手で受け止めただけ。ヒデオさんは気付かずに傘でよけたり、払い落としてる)
「ホント?」
カナエさんは頷き、(じゃ、帰るね)と伝えて、立ち去った。まだ、腕にカナエさんと触れ合った感触と温かさの余韻があった。
ボクは、その余韻を失いたくなかった。
年が明けて1月と2月は、大雪のせいで手話サークルの活動が中止となったため、桐林館喫茶室に行ってもカナエさんに会えなかった。
想いだけが募って時間が過ぎ、ようやく会えたのは3月。カナエさんは3ヶ月前と何も変わることなく、桐林館喫茶室の同じテーブルに座り、同じようにスケッチをしていた。
3ヶ月間の空白で、カナエさんの記憶の中でボクの存在が薄くなっていないか不安になる。ボクはカナエさんの向かいに座り、カメラ撮影などそっちのけで筆談ノートに会話を埋め尽くしていった。
会話禁止のカフェ店内は、相変わらず静かだ。
静かすぎるがゆえに、ペンを走らせる音が店内に響き渡る。
時折、カナエさんは窓の外を眺めて、何かのタイミングを図っていた。そして、ふと(約束、覚えてる?)と、また悪戯な笑みを浮かべて書いてくる。
(もちろん。あの掛軸の梅を見に行こう。車を出すから、どこに行けばいい? 遠い?)
カナエさんは笑っている。
(ここから、歩いてすぐ)
(そうなの?)
(今ならサイコーだよ! ほら、雪!)
窓の外を見ると、カナエさんが言うとおり雪が降り出していた。このタイミングを待っていたようだ。
カナエさんは立ち上がり、傘を差さずに店の外に出た。ボクも傘を差さずに後を追う。
わずか2分ほど歩いた、誰かの家の軒先に盆梅(盆栽に仕立てた梅)が置いてあり、カナエさんはしたり顔でこれを指差した。
「これ? こんな小さいの? 嘘だ。もっと大きな梅の木を描いたんじゃないの?」
店の外だから、ボクは静寂を切り裂いて声を発した。
カナエさんはボクの問いかけに一笑すると、手招きして、盆梅の近くにしゃがませる。すぐ近くにカナエさんの顔があり、ボクは心臓の鼓動の音が辺りに響いてしまいそうだ。
そしてカナエさんはボクの頭を両手で挟んで、下から空を見上げるように視線を合わさせる。
カナエさんの手は冷たかった。その触れたカナエさんの手ばかりを意識してしまい、なかなか気付かないボクにしびれを切らしたのか、カナエさんは(このアングルで見てよ)と言わんばかりに下から梅の枝へ指を差した。
やっと、ボクは理解し、驚嘆する。
ボクの視界が、あの隆々とした雪梅の図と、ピタリと重なる。目線や視点を変えて上手く場面を切り取ると、この小さな盆梅があの掛軸のような迫力のある構図になってしまうとは。
雪は本降りとなって、梅の枝を無作為に白く飾り付けていく。カナエさんがシャッターを押すジェスチャーをした。我に返ったボクは、この場面を何枚も撮影した。このギフトの雪を、梅の枝とボクは受け止めている。
この画像をモニターで確認すると、それは、まるで神様が撮影したような芸術性の高いものになった。このモニターを横で眺めていたカナエさんも、手を叩いて喜んでいる。
この世は、見方一つ変えるだけで、天国にも地獄にもなるし、人は天使にも鬼にも写る。それが実感とともに理解できた。
すると、カナエさんはため息混じりの笑顔で、メッセージを書いて見せてきた。
(もう、二人で会うのはやめよう)
「どうして?」とボクは動揺する。
(ウラタさんも、神様が私に届けてくれたギフトだから。ギフトは私ではなく公のためのもの。自分だけのものにしてはいけないよ)
ボクは気が付いたら、涙を流していた。
そんなの淋しいよ。
淋しくて淋しくてたまらないよ。
でも、今泣いているのは、悲しいのでも嬉しいのでもない。自分の人生で神様から与えられた使命に辿り着けたような、安堵に近い感情だ。
ボクは静けさの中で、頬を伝う涙を手で拭いながら、降りしきる雪を見上げ続けた。(了)
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