図書館ではお静かに。

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図書館ではお静かに。

  僕がこの場所を好きになった理由は二つある。   一つは、自分の好きな時間に自分の好きな本を読めるから。   そしてもう一つは、自分の全てを、優しく、穏やかに受け容れてくれるから。   この世界ではちょっとだけ生き辛いと思ってしまった僕が、生まれて初めてずっと居たいと思えた場所。   それが、この図書館だった。   机で本を読んでいる人たちも、   本棚の前で資料を物色している人たちも、   教科書を広げて勉学に勤しむ人たちも、   図々しいかもしれないけれど、 ここに居る皆と、僕の心が(しと)やかに共振し、共鳴し合っているように思えてしまう。   このしじまが当たり前に成る、不思議な空間。   僕の一番好きな空間だ。   ーーー。 『独特な雰囲気の本だったな』 僕は一冊の青い背表紙の本を読み終えてから、チラッと返却ボックスを覗いた。   そこには既に、大小さまざまな大きさの本たちがずらりと並べられていた。   『そろそろ片付けないと...』   僕は読んでいた本を閉じ、ゆっくりと自分の席から立ち上がる。   そして、自分の役割を終えたそれらの本たちを専用の台車に一冊ずつ移していく。   返却された本たちを元の本棚へと戻すこと。 それが僕の仕事だった。   少し不器用で、要領の悪い僕だけど。   それでも、この仕事は天職だと思った。   そう。 本たちは、声にならない"コエ"で僕の耳に語り掛けてくれるのだ。   『僕の居場所はあっちだよ』   『私の居場所はそっちだよ』って。 その"コエ"を頼りに、彼ら、彼女らを、元の居場所へと戻してあげる。   最後には『いつもありがとう』って、本からの感謝の"コエ"が僕の耳に届いてくる。   それは僕にしかできない唯一のことで、それこそが堪らなく幸せだと感じられる。   ーーー。 僕はさっき読み終えた、この青い背表紙の本の"コエ"に耳を澄ましてみる。   『ねぇ、あそこに困っている人が居るから助けてあげてよ』   本は勝手に感情を持って、僕にそう伝えた。 僕は少しだけ(いぶか)しく思った。 今まで、本がこのように自分の意見を持って"コエ"を出すことが無かったから。 半信半疑のまま辺りを見渡すと、僕より少し若く見える女性がとある本棚の前で佇んでいた。 僕はポケットに仕舞っていたメモ帳とペンを取り、サラサラと文字を書いて彼女に渡す。   『もしかして、何か困ってますか?』   彼女はそれを見て何か喋っているようだったが、すかさず僕は僕の口元に人差し指を立てる。   図書館ではお静かに。   彼女は僕のジェスチャーを見て、すぐに何かを察したのか、口元に手を当てて(つぐ)む。   代わりに僕が差し出したメモ帳とペンを手に取って、彼女も文字をしたためた。   『ごめんなさい。図書館では静かにしないとですよね』   彼女の書いた字は、走り書きにも関わらず綺麗な形をしていた。   『いえ、他の方に迷惑を掛けなければ大丈夫ですよ。僕の方こそ気にしいですみません』   新たに僕が綴ったメモを見せると、彼女は首を横にふるふると振ってから、またペンを走らせる。 『気をつけます。私もこの静かな図書館の雰囲気大好きなので』 彼女のそのメモを見て、僕は嬉しくなった。 僕が(こだわ)っている、この独特な静寂を。 静かに時間(とき)が流れていく、この空間を。 彼女は率直に好きと言ってくれた。 何とも仕事冥利に尽きるものだ。 勝手に口元が緩んできてしまう。 僕が少しの間だけ悦に入っていると、不意に僕の肩の辺りを彼女の指がトントンと突いてきた。 『すみません、目当ての本が見つからなくて。もし良かったら一緒に探してくれませんか?』 彼女が持っているメモには、綺麗な文字でそう記されていた。 ーーー。 彼女は、探している本のタイトルが分からない様子だった。 小さい頃に一度、この図書館で読んだことのある本のようだが、その時は文章が独特過ぎて最後まで読み切れなかったらしい。 大人になった今、もう一度その本を読んでみようと思い立ったが、肝心な題名を忘れてしまったという。 『付き合わせてしまってすみません』 『いえ大丈夫です、これも僕の仕事なので』 メモ帳とペンが、僕と彼女の言葉を紡ぐ。 でも、そうは書いたものの。 小説。独特な文章。そして、この図書館に置いてある本というヒントだけでは、目当ての本の捜索は困難を極めた。 『もう少し、その本の特徴はありませんでしたか?』 僕は彼女に、もう少しヒントになりそうな情報を(たず)ねてみる。 しばらく、彼女はうーんと考える。 そして、何かを思い出したかのように目を丸くして、僕の持っているメモ帳とペンを欲しがった。 『そういえば、その本。確か青色の背表紙だったような気がします』 彼女が書いたメモを見た途端。 僕の背後からボソボソと"コエ"が聞こえてきた。 『彼女、もしかして僕のことを探しているんじゃない?』 そうか。そうだったのか。 気が付いた時には、 僕はその"コエ"の主の元へと駆け寄っていた。 『なんだよ、君のことだったのか』 青い本は僕の問掛けに微動だにせず、 そっと台車の上に置かれたままだった。 ーーー。 『これです!この本です!』 彼女は興奮しながら、青い本を抱きしめる。 僕は彼女の目的の本を探し出せて、ほっと胸を撫で下ろした。 本は読み始めたその時に、本そのものの真価が発揮されるものだと思い込んでいた。 けれど今回の件で、本は時間を超えて、人に幸せを運ぶものでもあることに気が付いた。 この仕事は長いけれど、まだまだ僕の知らないことの方が多いみたいだ。 「本当にありがとうございました!」 彼女は多分だけど『ありがとう』と、声に出して言ってくれたのだろう。 僕もそれに応えようと、右手の親指を立て、彼女にグーサインを送ってあげる。 彼女はとびきりの笑顔を浮かべていた。 僕には、彼女の声は届かない。 けれど。 彼女の優しくて柔らかい“コエ”は、 確かに僕の耳の奥に届いた。
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