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始まりは、孤月浮かぶ夜
全ての音を遮断する、シェルターの中から眺めているようだった。
柳眉を逆立てる女に、慌てふためいている男。
二人は私に向かって何か言っている。でも、私の耳には何も入ってこない。
男は、長く付き合っている私の彼氏だ。高校からの付き合いなので、もう十年近くになるだろうか。
ドキドキはもうないけれど、一緒にいて楽な人。互いに気を遣わない相手。
このまま結婚して、この先もずっと一緒に生きていくんだろうなと思っていた。なのに、私の目の前で今、いったい何が起こっているんだろう?
突如、パンと弾けるような音がして、私は我に返った。
これまで無だった音が、怒涛のように押し寄せてくる。
「あんたも何か言いなさいよ! バカにしてんの!?」
はぁ?
「違うんだよ、理沙。こいつのことはもう何とも思ってない。俺が好きなのは、理沙だけだ!」
はい?
「でも! この女、余裕って顔してるわ。勝ち誇った目で! 修一は自分のものだって思ってる? 違うわ! 修一は私のことが好きなの! あんたとはもう終わってんのよ! なのに、いつまで彼女面してんの!?」
私はさっきから一言も発していないんですが。
それに、勝ち誇った目なんてしていない。それはむしろそっちでしょと言いたい。
私のは……死んだ魚の目、というのが正しいんじゃないだろうか。
それが余裕に見えるの? いきなり人の家に突撃して、怒鳴り散らして、私に余裕なんてあるわけがない。
私は、修一の家で夕飯を作っていたのだ。
週に三日ほどは修一の家に通って、夕飯を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたりといった家事をしている。いっそ同棲した方がいいんじゃないかと提案したこともあったけれど、彼は頑なにそれを拒否していた。
今ならわかる。
彼は、私に縛られたくなかったのだ。でも、手放したくもなかった。……家政婦として使える便利な女だったから。
「何とか言いなさいよ!」
理沙とかいう女は、再び手を振り上げる。
あぁ、さっきのは頬を叩かれた音だったんだと、ようやく気付いた。気付いた途端、そこがじくじくと痛みだす。熱も持っているみたいだ。
悪いけど、二度も殴られる気はない。
私は彼女と彼を見据え、言った。
「さよなら。もう二度と会わない」
早足で玄関に向かい、靴を履く。
あぁそうそう、合鍵も置いていかなければ。
こんな時だというのに、妙に冷静な自分がおかしくなってくる。
「結衣!」
私を呼ぶ彼の声が聞こえてきた。
何とも思っていない女を呼び止める意味がわからない。
私は彼の声を一切無視して、家を飛び出した。
「あ……」
しまった。やっぱり、それほど冷静じゃなかったようだ。
私は両腕で身体を抱える。上着を部屋に忘れてきてしまったのだ。
外の冷気に震える。でも、今更取りに戻るのも間抜けだし、あの二人の顔をまた見るなんて憂鬱すぎる。
私は仕方なく、そのまま歩き出した。
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