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突然の声に、私は顔を上げた。
そこにいたのは、一人の男性。
外灯に照らされたその姿に、私は慌てて立ち上がろうとして思い出す。
あ、猫!
「なぁっ!」
猫の方も驚いただろう。私が急に体勢を変えたのだから。
でも難なく地面に下り立ち、今度は男性の方に近づいていった。
「え……」
「なぁ! 急に出て行くなよ。迷子になって戻れなくなったらどうするんだ」
「なぁ」
「元は野良でも、もう野生の勘なんてないだろ? ほんっとにしょうがないなぁ」
男性は黒猫を優しく抱き上げ、すりすりと頬ずりをする。
それはそれは、蕩けるような甘い顔をして。
その表情を見て悟る。
あぁ、この人がこの子の「下僕」さんか。
「すみません、こいつがご迷惑をおかけしたみたいで」
彼はそう言って、片手で猫を抱いたまま、もう片方の手を私に差しのべる。
「いえ、私の方が迷惑をかけてしまいました」
私は一人で立ち上がり、頭を下げる。
迷惑をかけたのは私の方だ。懐いてくれるのをいいことに、愚痴を聞いてもらっていたのだから。
「その子に話を……聞いてもらっていたんです」
私がそう言うと、彼は少し困ったような顔になり、もう一度手を伸ばした。
「僕にも、聞かせてもらえますか?」
「え?」
あまりにもびっくりしてしまい、彼を凝視する。
いったい、この人は何を言っているんだろうか?
「あ、僕は変質者とかそういうんではなく、普通に会社勤めしてて、それで、このすぐ近くに住んでて。あ、こいつは僕の飼ってる猫で、名前は「なぁ」って言います。元は野良で、なぁなぁなぁなぁ鳴いてたので、「なぁ」ってつけました。それで……」
呆気に取られるとは、こういうことだろうか。
私は呆然と突っ立ったまま、彼の話を聞いていた。
彼は、私が止めない限りこのままずっと話し続けるんじゃないかという勢いで、自分は怪しくないアピールをしている。
「……っ!」
だめだ、もう無理。
「あはははは!」
「え? あ、あの……」
いまだこちらに伸ばされたままの彼の手。
脈絡なく話し続ける彼は、とんでもなく「変な人」。でも、悪い人じゃない。
いつもの私なら、こんなことはしない。ありえない。
でももう散々な経験をした後だったから、感覚が麻痺していたのだろう。
私は、彼の手を取った。
「上着を忘れてきてしまって、すごく寒くて。でも帰りたくなかったんです。……話、聞いてもらえますか?」
彼は、先ほど黒猫の「なぁ」に向けていたような優しい目になり、ゆっくりと頷いた。
「はい。ちょうど夕飯もできたところです。一緒に食べましょう」
本当におかしな人だ。
見知らぬ人間を易々と自分の家に招き、おまけに夕飯を一緒に食べようだなんて。
そして、それを受けてしまう私も、相当おかしな人間だ。
「ちょっと、なぁをお願いします」
「え? はい」
猫を私に渡すと、彼は自分の上着を脱いで、私に羽織らせる。そして、私の手からなぁを引き取った。
「ほんと、すぐそこなんです。急ぎましょう。あなたが風邪をひいてしまう」
「……はい」
彼はまた片手でなぁを抱き、もう片方の手で私の手を引く。
その時、連れていかれるのが彼の家ではなく、どこか怪しい危険な場所でも構わないと思った。
羽織らせてくれた上着、引いてくれる手、早足で歩いている最中にも止まらない話。その全てが、私を温めてくれたから。
私はもう一度空を見る。
ぽっかりと浮かぶ寂しい月は、もうそこには存在していなかった。
雲一つない夜空に浮かぶのは、明るい光で私たちを煌々と照らしてくれる、優しい月──。
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