第一羽『丸フラスコのジェオルジ』

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第一羽『丸フラスコのジェオルジ』

 とうとう誰も私のことをリヴィーと呼んではくれなくなった。リヴィーというのは私のかつての愛称で私はこの愛称がとてもとても大好きだった。けれどこの呼び名で私の事を呼んでくれるのはこの世でただひとりのひとであり、けれどそのひととはもう会えなくなってしまったのだった。きっとそれは私が大きくなったからではなく、益々棘が鋭くなってきているからでもなく、きっと私がいつまでも子供では居られないという証なのだろうということを私はちゃんと分かっている。さもいかにもな感じで背中を丸めたまま膝を蔦で包んで、おねえちゃんと心の中で呟いたりなんかしてみる。遠い昔おねえちゃんに、心なんてものは何処にも無いのよと言われたことがある。特に貴女のようなものには、と強く優しく言いつけられた。幼かった私には、『貴女のようなもの』という言葉の意味がよく分からなかったけれど背丈がするすると伸びるにつれて否が応でも理解しなくてはならなくなった。この世界のもの達みんな、私の姿を見た瞬間に石を手に持って投げつけてくるのだ。それはその時たまたま手に持っていた物であったりきらきら光る鉱石であったり重い鉄の物であったり、つまりは硬く尖った痛々しいものならばなんでも良いみたいだった。それをみんな私に投げつけては私が擦り傷ひとつ作ればそれで満足するみたいでさっさと一目散に逃げていくのだった。私ははなからみんなを傷付けようなんて思ってはいないのに、終いには必ず傷付いて血を流す私をみんなは遠くから指差してけらけらと笑うのだった。だからこうしておねえちゃんと離れ離れになってからというもの、私はなるべく痛いものを投げつけられないような人目に触れづらい北の果てで暮らすようになっていた。ここは棲まう命が少ない上に点在する水辺は澄んでいて決して焼け死ぬことがないから、私のような薔薇には姿を隠す上で申し分ない場所だと言えた。けれどやっぱり何処を探してもおねえちゃんは居ないからそれを言ってしまえば私にとっては何処も同じように寒々しい場所だった。私はそんなことを思いながら夜を映す泉の側に座り込みそっと水鏡を覗き込む。センチメンタルな気分の時は水辺に腰掛け自身の姿を映しながら軽い溜息をひとつだけ零すのよ、と小さな頃におねえちゃんから教わった。重い溜息ではダメよ、沈み過ぎてしまうから。軽いものをふたつでもダメ、安い女だと思われてしまうから。  突然蔦から血が滴りぽたぽたと水面に落ちて私は驚く。歯の鋭い魚達が盛んに跳ねては逃げていく、私の棘だらけの蔦が無意識にその一尾を掴んで簡単に刺し潰してしまう。私は酷く慌てる。 「だめだよ、だめ、命を粗末になんかしちゃ」  私はこの子達の肉を食べたりはできないんだから。きっと中途半端な生き物だからきっとおねえちゃんからも嫌われてしまったのだ。薔薇なのかヒトなのかも分からない、自分の蔦のお世話もできず涙も流せない棘まみれの生き物だから。途端におセンチが溢れ出し悲嘆に暮れて私はわんわんと突っ伏した、また頬に棘がいくつも刺さる。もうこのまま一生おねえちゃんにも会えずにこうやってひとりぽっちで枯れちゃうのだ。そんなことを乾いた胸でじめじめ考えていると水面が柔らかにそよいでふわりと声が漂ってきた。 「何を悲しんでるの、リヴェルタ・ユレン」  顔を上げる。泉に浮かぶ真っ白な顔となだらかな双丘、硝子のような銀色の鱗。そして不思議と痛ましいとは感じない、きつく縫い込まれた両眼の黒い糸。 「…歪ちゃん」  無邪気な薔薇が笑っていないなんて今夜の隠り世は穏やかじゃないねえ?なんてからころ笑いながら言う。そして嬉しそうに、 「ああ!この血の匂い、さてはがぶがぶちゃん達の一匹を活き造りにしちゃったね?あとのもうひとつはぁ…リヴェルタ・ユレン自身のものかなあ?」  ごめんなさいと私は急いで謝る。 「また蔦が言うことを聞かなくって気付いたら…。言い訳ばかりで、ごめんなさい…」  いいのいいのぉ、と何故だかにこにこして彼女は言う。 「あの子達もよく歯ぁ立ててがぶがぶしてくるから歪も沢山ぱくぱくしてあげてるんだぁ。美味しいからねえ、仕方ないよねえ」  歪ちゃんはここら一帯の泉のあるじさま。立派な尾鰭が付いているのにぷかぷか浮かんでばかりであんまり泳がない人魚(その代わりによく岸辺の岩に腰掛けては歌ったりお喋りに夢中)、だけれど私は歪ちゃん以外に人魚を見たことがないから人魚とは本来こんなものなのかもしれないと思っている。私は無理やり心のおセンチに蓋をして気付かれないくらいの距離だけ歪ちゃんに近付く。どうか慰めて欲しくて。今この時だけでも寄り添っていて欲しくて。 「…これ、あげる」  そして私は橙色の花弁を一枚毟り取って泉にふわふわ浮かぶ歪ちゃんに差し出した。途端に歪ちゃんが突然ざばりと岸辺に上がってきて閉じられた瞳で私をずいーっと見つめてくる。ぴたりと動けなくなってしまった私ににっこり笑いかけて、どうして?なんて問いかけてくる。私はびっくりしてすぐさま不安定になって、押さえ込んでいたセンチメンタルががたがた震え始める。 「…なんで受け取ってくれないの?」  頭の片隅でおねえちゃんの影が囁く。良いリヴィー、問いに問いで返してはならなくってよ。ちゃんと誠心誠意お答えしなくてはダメ。何故って…。お相手に、ご無礼でしょう?  うーんと歪ちゃんが顎に手をやり考える。つまり、だ! 「リヴェルタ・ユレンは私にそれをプレゼントしたいんだね?」と指を差された。私がどっきりしたのに反応して棘々の蔦が一斉に唸る。 「…迷惑だった?歪ちゃんはこれ嫌い?でも私、差し出せるものがこれしかなくて、だから私にはこれしかないから歪ちゃんが受け取ってくれないと私どうしたら良いか分からないの。歪ちゃんが受け取ってくれなかったら私一体…」早口で言って口篭る。口籠るくらいならば言わなければ良かったのにと後悔が私を笑いながら責め立ててくる。  それで?と歪ちゃんが言う。一体全体、どうなるの?と縫われた両目に見据えられながらそう問われる。何も見えてないはずなのに何が分かるんだろう、彼女には何が見えているというんだろうか。詰まる所、こうだね? 「リヴェルタ・ユレンは歪に迷惑料を支払おうとしているって所かなぁ?色んな状況を察するにねえ」  あの女もなかなかやっぱり罪な女だよねえ、こんな小さい子ひとり置き去りにしてさ。やれやれっていう風に両手を広げて笑う。歪ちゃんはいつも口角を上げて笑っている。だから私は恐る恐る聞いてみることにする。 「あの女って…もしかしておねえちゃんのこと?」  そ。簡単に頷いて私の花弁を突然摘まみ取り縦に引き裂きながら口に入れていく。咀嚼、咀嚼、咀嚼、ごっくん。うん、甘くて非常に美味しいよ、毎日この泉の水を飲んでいるだけはあるねえ。 「おねえちゃんの居る所、歪ちゃん知ってるの…?」そんな風に顔を寄せて必死で問うのに聞く耳すら持ってくれない。 「リヴェルタ・ユレンは繊細だからねえ、しゃきしゃき水気たっぷりの繊維みたいに。だから歪の泉でしょげてたのが後ろめたいんだ、だから歪に飛びっ切りのプレゼントを渡すことでそれをちょっとでも解消したいって思ってるんだ」  違うかな?違わないかな?さてはて成れ果てどっちかな?早口で歌うみたいにそんなことを言われても私の頭にはヒズミノイズミ、みたいなそんな早口言葉しか残らない。おねえちゃん、おねえちゃん、私だけのおねえちゃん。また私は無性に花弁を毟りたくなる、おセンチが心の蓋を取り除こうと喚いている。 「お願い…。おねえちゃんのこと、それ以上悪く言わないで…」  俯いて呟く。声が震えていて、それをなんとかして止めたくなって、棘で自分の蔦を何度も何度も刺した。 「血の匂い!またやっちゃったねリヴェルタ・ユレン!そういうのジショウタガイノオソレアリっていうの、知ってるかな?」  人魚が鼻歌を歌っている。自傷の少女、薔薇色少女、棘棘だらけの女の子。私は泣き出す、涙も流せないのにまた泣き出す。 「どうして歪ちゃん、そんなにおねえちゃんのこと悪く言うの。おねえちゃんのこと、嫌いなの?」  ええっひっどいなあ、そんなことない。 「悪くなんて言ってないよぅ、勿論嫌いだなんてとんでもない!ただね」  上手くしてやられちゃったねえリヴェルタ・ユレン、ただそれだけ。さてどうしようか、思案中。歪としてはもっともーっとリヴェルタ・ユレンをつんつんしちゃってお腹いっぱい花弁食べても良いんだけれど…。 「歪」  ぴしゃり、戸締りの声がした。私はぎょっとして振り向く。ふたつの月明かりが彼女を照らしている。 「虐めすぎよ」  ふわり、果実の香りと共に歪ちゃんの左耳が煙の指先で容赦なく摘ままれた。泉のあるじさまにこんなことをしても許されるのはこの辺りではひとりしか居ない。 「…あちゃー、見つかっちゃったかあ」歪ちゃんがへらへら両手を上げて降参のポーズ。  漂ってくるこの香りは一体何だろうか、ひとまずここの世界のものではないことは確か。私は鼻が悪い、いつも自身の顔に咲いている薔薇の匂いが邪魔をするから。だから誰かが近くに来てもすぐに気付くことができない、この魔窟でこんな風に呑気で居られるのはきっと私くらいのものだろうと思う。 「いたた、全く酷いなあ。誰かと思えばケムリノオバケか」 「貴女は随分前から気付いていたでしょう。それと名前が違うわ、ギンイロヒズミ?」 「何だったっけ?…シエンロウ?」 「残念、遠ざかったわよユガミノニンギョ」 「分かってるって、偉大なる香零サマ」  お世辞はやめてと言ったはずよ。  我儘だなあ、カミサマって奴は!  花緑青色の髪が一房垂れてきて私を見やる、檸檬のような香りだ。檸檬、薔薇、白牡丹に青林檎…その他数多の植物達はこの荒廃した魔窟では自力で生きてはいけない。ほとんどが熱と鉱物だらけの大地では、決して。 「…香零さま、ごめんなさい。私がうるさくしちゃったから」  あらユレンったら、何を謝っているの?とカミサマが私の目線にしゃがみ込む。大丈夫、言わなくても全部分かってるから。 「あの能天気な腹黒人魚に泣かされちゃったのよね?」  あははと歪ちゃんが声高く笑う。コウにしてはセンスのある謎謎だねえ!見た目は雪白、ハラワタ墨汁、これなーんだ?  ちょっとは静かにしてなさいな。あとコウにしては、って失礼しちゃうわね本当に。  そして彼女が私の頬に刺さった棘を優しく抜き去っていく。抜き取られるたびにぷつん、ぷつんと音がして血が流れる。その優しさに私は惚ける、私の蔦は考えなしだからぼんやりしているとその辺にいる野鼠や烏やらを巻き潰してすぐに殺してしまう。だから小さな痛みと大きな罪悪感だけに意識を向けておくようにする。 「歪ちゃんはなんにも悪くないんです、私が勝手に落ち込んじゃってただけで…」 「そぉそぉ!なんか知らないけどほとりでひとりしょんぼーりしてただけなんだってえ。本当だよぅ?」  五月蝿いわよ、口も縫われたいの歪。 「あのねユレン、わたくしはこの至らない人魚を叱りに来ただけなのよ。貴女には何ひとつ怒っていないわ」 「…本当?」 「本当よ」  そしてあらかた抜き取った棘達を油紙に包んで、これ頂いていくわねと懐に仕舞い込まれた。そんなものどうするのですかと問うと後で香を焚くのよと微笑まれた。良かったら試しにユレンも来てみない?貴女なら大歓迎よ。 「貴女なら、だーって。まぁた歪を仲間外れにする気だねえ?意地悪なカミサマにはほいほい付いてっちゃだめだよぅリヴェルタ・ユレン」  軽口を叩く歪ちゃんの横顔に香零さまが笑みを絶やさないままふっと香の吐息を吹きかけた。歪ちゃんがけほけほ咳き込む。 「何するのさコウ!」 「貴女はどうせ誘っても来ないでしょうに。人魚さんは火は苦手だものね」 「苦手じゃないったら、アレの火だから嫌なだけ!」 「あんまり大きい声を出さないでくれるかしら。ユレンが怖がったらどうしてくれるの」  ねえユレン?あら、こんな所にも棘が。ああ、そのままじっとしていてね。 「大丈夫です香零さま、私…このくらい慣れていますから」 「まあ、こんなに傷だらけで?魔界といえど血に慣れ過ぎるのは良くないことよ。それにわたくしのことを敬い過ぎるのもいけないわね」  だってわたくし貴女ともっと仲良くなりたいもの、などと言う。棘だらけの血だらけの嫌われものの私のことを香零さまは怖くないのだろうか。確か彼女は寝付く前に灯す香炉の付喪神。カミサマとはみんな慈悲深く愛情豊かなものなのかもしれない。煙のように柔らかく、そして香りのように全てを包み込んでくれる存在なのかもしれない。少しばかり優しくされたくらいでそんな風に思う私は蜜蜂すら寄りつかない甘ったれた子供だろうか。だからおねえちゃんは私の元から居なくなったのだろうか。おねえちゃんは生温い花の蜜なんて嫌いだったから。 「香零さまは…私が怖くないのですか」  まあ、怖いですって?と彼女は目を丸くする。ふわりと柑橘の香りが私を包む。 「わたくしにとって恐ろしいものなんてこの世に何ひとつとて無いわ。強いて挙げるならば貴女が悲しみの果てに枯れ死んでしまうことくらいかしら」  いっけないんだぁコウの奴、またその気もないのに誑かして。そう言う歪ちゃんが隣でにんまり笑っている。 「この隠り世でそんな風に甘やかしちゃったりしてさあ、最期まで責任取れるのぅ?」  この子は夜に咲くセピア色のローゼ。狐狸の類とは違うんだよ、分かってる? 「茶々を入れるのが随分と好きなのね、歪。さっきから再三言っているけれどユレンが不安になるようなことを言うのは控えてくれるかしら」 「そういう香零こそユレンの為ユレンの為〜って言いながら本当は自分の為なんじゃあないのぅ?」  そんな言葉にも一切響いた様子もなく、まあ良いわ、わたくしにはとっておきの秘策があるのだからと自信満々な口調の香零さま。そんな様子を一瞥、肩をすくめた歪ちゃんから、あんまり期待しすぎちゃあだめだよぅリヴェルタ・ユレンと耳打ちされた。なんて言ったってこのカミは、ミライエイゴウムジカクリコテキモウソウシンドロームなんだからねえ。意味は全然未来永劫分からないまんま。 「ねえユレン。わたくし達、ユウジンになりましょうよ」  美しい輝くような笑顔から発せられる、ユウジンという美しい輝くような聞き慣れない言葉。膝を抱えたままぼんやりと反芻する。ただの燻んだ薔薇なんかと香りのカミサマが、ユウジン? 「ユウジンって、おともだちってことですか…?」 「そうよ。おともだち、ということ」  香零さまが棘だらけの私の蔦を煙の指先で撫でる。香零さまは煙のカミサマだから私の棘なんかじゃ傷付かない。風もないのにふわりとすり抜けてまるで本物の神様みたい。そう思いながら夢のようだと彼女の微笑みに私は見惚れる。するとねえねえ〜と歪ちゃんが私達の間に半ば無理やり割り込んでくる。 「歪も〜」ぎゅうと私達ふたりまとめて冷たい肌に抱き寄せられた。良いでしょ〜?減るもんじゃあないんだしさあ。 「ちょっと息苦しいわよ歪。それに横入りはなしの約束でしょ?」そう言いつつも、はいはいと受け入れる香零さまを見て私も同じように身を委ねた。歪ちゃんの銀色の鱗は酷く硬いから私の棘でもそう簡単には壊れない。だから安心して蔦を這わせる、彼女のひんやりとした肌の水分で私は潤い癒される。 「どうせ歪達ぜーいんさ、ノケモノケモノなんだから別にいいじゃん?」  ファティだって、結局そうだよ。ファティ、聞き覚えのある名前。いやこれは名前じゃない、勝手の良い呼び名だ。ファティ、ファティ。…ファティマ。  うわばみの、ファティマ。  思い出した、おねえちゃんの名前だ。今まで一度だってそんな風に呼んだことはないけれど。ユレン、と香零さまから呼びかけられて私はこちら側へ半ば強引に引き戻される。内緒話をするみたいに狭い空間の中で私達は額を寄せ合っている。 「わたくし達と、お友達になってくれるかしら?」  誘いの言葉におねえちゃんは一瞬にして消え去った。私はこくこくと何度も頷く。 「なるっ!なります!…私とお友達になってください!」  私なんかで良かったら。私みたいな怪物で良かったなら。やったねえ!と歪ちゃんが万歳して、ばしゃんと大きな音を立てて泉の中に背中から落ちた。そしてすぐに浮上し子音だけで歌を歌う、それを聴いていると不思議となんだか笑えてきて私はゆらゆら楽しくなる。 「本当、取り柄はその声帯だけね」と香零さまが呆れたように笑う。次何か悪さをしたならば喉だけ切り取ってしまわなくてはね。 「でも私、歪ちゃん、好き。勿論香零さまも、好き」考えないままくすくす呟いていた。今なら迷惑だって思われても構わないと思えたから。それを聞いた香零さまが、貴女がそれで幸福ならばそのままにしておきましょうかと袖で口元を隠しながら言った。一瞬だけ微笑んでいるようにも見えた。ユレンの優しさに命拾いしたわね歪、と。 「ねえねえリヴェルタ・ユレン、私の今の歌声聴いてくれたぁ?」と歪ちゃんが珍しくすいすい泳ぎながら戻ってくる。 「えっ、うん、聴いたよ。すっごく綺麗な歌声だっ、」全て私が言い終わらないうちに、良かったあ。 「これで当分リヴェルタ・ユレンは歪達にウヤマイを使えなくなったからねえ。けーしき的な所から歪達はもうトモダチだよぅ?」 「ええ!」私は驚いて蔦で口を塞ぐ、また顔中に棘が刺さって私は痛い思いをする。恐る恐る見上げると、あらあらと香零さまが怖い顔で笑っていて私は思わず身震いをする。 「なんってことをするのかしら、この魚類は…。いい加減三枚おろしにされたいみたいね?」  こういうのは徐々に慣らしていかないと意味がないっていうのに、全く本当に昔から余計なことしかしないんだから。 「良いじゃん減るもんじゃないんだし!それに効果はひとつきくらいの弱いものだよぅ?荒治療もだーいじ!炎症に塩を塗り込むのといーっしょ!」 「その前にお相手にもちゃんと自由意思があるってことをその頭から抜け落ちているネジの穴にちゃんと詰め込んでおきましょうね、白身魚のお嬢さん?」  それとも貴女の頭蓋の中身はすっからかんなのかしらね?裾をひらり捲って雪駄で歪ちゃんの頭を踏みつける香零さま。いててて、とそのままずぶずぶと水に沈んでいく歪ちゃん。そんな光景を目にしていたらやっぱりなんだかくすくす笑いが止まらなくなる血塗れの私。ずっとおねえちゃんは私の側に居てくれたけれどお友達ができたのはこれが初めて。そういえばおねえちゃんは私にお友達を作るなとは言わなかった、作り方は一度も教えてもらえなかったけれど。いや違う、ずっとおねえちゃんが側に居たからお友達なんて必要なかっただけだ。そんなこと考えもしなかっただけなのだ。先程までのおセンチなど何処へやら、私は今すぐにだって目の前の水に飛び込んだって良いくらい。お友達とはなんて幸せなものなのだろう、きっと酷く祝福されたものなのだ。そんなものを持てる私はきっと、何処かの何かに祝いの花弁を天からばさりと投げ落とされているに違いないのだ。  あ、リヴェルタ・ユレン、またほっぺにトゲトゲ刺さってる!かわいそうに、誰のせい?歪のせい?そんな人魚は水の精!なんちゃってぇ。きゃははと笑いながら歪ちゃんが私の頬をまさぐり鋭い棘を抜いては口に放り込んでいく。そしてぎざぎざ犬歯でばりぼり食べては、美味しいよぅなどと宣う。血が滴って殊更おいしーい、リヴェルタ・ユレンの無邪気なトゲトゲ!  全くもうと香零さまが溜息をつきつつ棘抜きを手伝い始める。これだけあれば薔薇の香が何回焚けるかしら、折角だから葉も蒸してお茶会も開かないとね。そんな言葉を聞きながら私はされるがままになっている。お友達が喜んでいるからそれで良いかと思った瞬間、本当にそう?と頭の片隅でおねえちゃんが舌舐めずりをする。私の脳髄液をおねえちゃんが美味しそうに啜っては、根源的な本能で私の扁桃体を締め上げる。本当にそうかしら、あたしの可愛いリヴィー。本当にこのおふたりは好意だけで貴女に寄り添ってくれているのかしらん。もっと何か違う目的があって貴女ににじり寄って来てるんではなくって?心の底から本当に、お友達になりたいんだってそう言える?例えばこのカミ、香を焚く為に貴女の棘が欲しいからって優しい顔して嗅ぎ回っているだけなのじゃない?例えばほらこの水の精も。弱い貴女を揶揄っていつかは泉の底に引き摺り込もうなんて、虎視眈々と狙っているのではなくって?本当に違うと、そう言える? 「…良い?ユレン」  私ははっと香零さまを見る。髪と同じ花緑青色の瞳が星々に煌めいている。カミサマみたい、見たこともない本物の星の神様。このカミサマになら私はなんだって差し出したって良いなんて、莫迦みたいにそんなことを易々と思ってしまう。だからきっと私はいつまで経っても子供のまま。 「わたくし達はもうお友達なのよ。だからね、自分の一番美しいものを無理に差し出さなくても誰も貴女を嫌ったりしないの、ユレン」  そぉそぉ、と歪ちゃんが頷く。気にしぃなんだよリヴェルタ・ユレンはさあ。まあ歪はそゆところも嫌いじゃないけどねえ。 「ネジの飛んだ人魚もこう言っていることだしね。それだけは忘れないでいて欲しいわ」 「あー酷いなあ!ケムリノオバケにはあっかんべーだ」  ぱしゃんっと歪ちゃんが尾鰭で泉の雨を降らす。こら歪!なんて香零さまは言うけれど彼女の体はほとんど煙だから濡れやしない。一方で私も所詮は一介の薔薇だから美味しい水は大歓迎。今日は良い夜、センチメンタルとも当分ばいばいできそうだ。だって生まれて初めてお友達ができた、それもふたりもだ。聞いて、聞いてよおねえちゃん。香零さまと歪ちゃん、っていうの。ふたりはね、私が美しくなくても良いって言うんだよ。私が花弁を毟り取って無理に押し付けなくても別にそれで構わないって言ってくれるんだよ。 「…大好きな、おともだち」  安直な告白、私はなんて幼稚な橙色の薔薇。煙のカミサマの丸い瞳と泉の人魚の縫われた瞳が合わさって星が弾けたら、まるでそれは線香花火だ。ぽっかりと夜に浮かぶふたつの月が泉の水面に揺らめいている。どうしてふたりが私とお友達になろうなんて言ってくれたのか、私は必死で考えないようにしている。だからその代わりに隠れていたおねえちゃんが海馬体の奥底から顔を出す、影となってこっそりと囁く。ねえ本当?愛しいリヴィー。信じていいの?貴女の心を託していいの?無知で可愛い、あたしだけのリヴィー。 『貴女の何処にも、心は無いのに』  おねえちゃんの冷たい蛇の鱗が私の体内を這い回る、そのぞっとする冷たさが私は心底嫌いで心底好きでもうきっとどうにもならない場所に私という薔薇は植ってしまっているのかもしれないと錯覚する。何かを失って何かを得る幸福を私は幸福と呼べるだろうか。おねえちゃんの居ないこの今を私は幸福と呼べるんだろうか。私の中のおねえちゃんはわたしがひとりで幸せになることをなかなか許してはくれないみたい。    おねえちゃんには私がまだ若木であった頃にとある世にて拾われた。その世は昼間で陽の光がざあざあと降り注いでいた。私がまだ鄙びた種子だったあの日、綿の毛布に包まれてよく乾いた葡萄の蔦を編んで作られた揺籠に乗せられ細い小川にそっと浮かべられたのだった。喧騒のカーニバル、空には羽の生えたなにかが何度も宙返りをしていた。それを見ている間にするりと水の流れに捕まり私はその地を遠く離れ始めた。発光する青い鱗粉が鼻先を掠めて頭がくらくらと回転した。揺籠は誰にだって気に入ってもらえるようにと色とりどりの花々で姦しく彩られていて、こんなんじゃあ私の方はないがしろにされてしまうんじゃないかと小さな不安を覚えた。薄ぼんやりとした意識を浮かせると嬌声をあげる女のきのこ達が黄色いハンカチを片手に手を振っていた。岸辺に幾つも生えるイカレた柳が頭をわんわん振り回すからどんどん細波が強くなる、私を乗せた花籠をぐんぐん下流へと押し流す。そして私はそんな花々の香りにくるまれてしばらく眠ってしまっていた、それはたったの七秒であったかもしれないしもしかしたら数百年であったかもしれない。けれど空気の匂いが明らかに変わったことで私はぱっちりと目を覚ましたのだった。乾いていた蔦の籠も水を吸ってもうぐしゃぐしゃに腐り切ってしまい、そのうちこの未来のない綿の中で私が芽を出そうとしていた寸前だった。変化するのは酷く痛かった。内側は火が灯ったように燃え盛り、自身が発火しているようだった。私を守っていた固い外殻が壊れていく、音を立てて軋み歪んでいく。私には光と水が必要、私はこれから誰もが見惚れる美しい薔薇になる。たくさんの蕾を膨らませたくさんの花を咲かせるのだから。見るもの全てを魅了する薔薇へと変身を遂げる。私の花弁は狂っちゃうくらいの芳香を放ち、紅茶に浮かべてみればほら、飲むことを躊躇うほどに優しい過ちを彷彿とさせる。けれど私を摘もうなどと考えたなら痛い目を見る、幾つもの棘が深々とその身に突き刺さりお前を内側から燃やし尽くす。  そうして、ゆっくりと時間をかけて辿り着いたそこは私の知らない異界であった。浅くなっているところへ引っかかった花籠は宙に浮きぐわんぐわんと上下に揺れた。けれど私はいつまで経っても痛みと熱の中で夢現つのままだった。おねえちゃんから後になって聞かされた話だが、そこは鉄と火と森と水がうまく交わってできたヒトの世だったそうだ。私は鉄は苦手だ、燃えて焼け死んでしまうから。花籠を拾ったそのヒトはそのまま籠を日当たりの良い窓辺に置き、一日に一度足音を忍ばせてこっそり籠の中を覗き込んでは瞳から大粒の雫を流していた。覗き込んだヒトは私とは似ても似つかない肌の色をしていて、皺だらけの顔で動物の肉を喰らい羊の乳を飲むような生き物だった。バーバヤガだってそんな悍ましいことはしない、何かから何かを少しずつ削ぎ落として奪うようなことは。私はつまり、取り替え子だったのだ。彼らがヒトの世から美しいひとつのものを貰い受ける代わりに、贈り物とは名ばかりの代替品として用意されたのが私だったのである。私は森の外れのその小さな家で音もなく静かに成長し、濡れそぼっていた穴の空いた籠がすっかり乾くころ窓辺で橙色の蕾をゆっくりと咲かせた。私の蔦は花籠を覆い尽くし綿の毛布も意味をなさなくなっていた。ゆっくりと起き上がって辺りを見渡す、私を拾ったのであろうヒトが背中を向けて何かを口ずさんでいる。それが何かを手に持ちこちらを振り返る、私はそれをじっくり眺めている、髪の長いヒトが垂れてきたそれをかき上げて窓を見て視線を落として、それから。きっと私の花籠は逆光、艶々と光る蔦の棘達、そして金切り声。ヒトは手に持っていた何かを私に向かって投げつけてきた、湯気を立てているそれは右の壁に当たり熱いものが部屋中に飛び散って私は背中をじゅうと火傷した。痛い、痛い。変身は痛い。けれどそれを撫でて治してくれる手は何処にもない。そして気付けばもう、その髪の長いヒトの命を奪ってしまった後だった。私の蔦がずるりと伸びてヒトの四肢はぎざぎざと切断されていた。こちらの世の命というのは酷く脆くて儚いものなのだった。家の奥からもうひとりの髪の短いヒトが奇声を上げながら駆け寄ってきた。壁に吊るされていたぎらりと光る何かを手に持って血走った目で私の蔦を鋭利なもので斬り付けてきた。上手く躱しきれずに柔く斬られて手酷く火傷を負った。とても痛くて思わず籠の中でうずくまるとその間にまた蔦が勝手に動いたらしい。そのヒトの右足を根本から千切ったようで、顔を上げると夥しい量の赤がどろどろ流れ落ちて床を染め上げていた。ふたりのヒトの血で家の中は赤い沼地のようになっていた。それを見て初めて私は酷く喉が渇いていることに気が付き夢の花籠からそっと抜け出て跪いて床の血を舐めた。ぴちゃりぴちゃりと啜ったヒトの液体は私の管全てに行き渡り無我夢中で喉を鳴らし飲み続けた。ひいひいと鳴く残された方のヒトが目や口から透明な液体を大量に流しながら息を吸ったり吐いたりしていた。家の中の湿度が少しずつ上がってきて私はぼんやりと嬉しかった。  ヒトは何処からか持ってきたのか、何やら大きな鉄のものを振りかぶってそのまま私を打ち据えた。私は痛いだろうなと思っていたが赤い水分が美味しくて何もかもどうでもいいかと思っていた。何度も何度も打ち据えられた、肩や背中に大きなみみず腫れができてそこからヒトと同じ赤いものが滲み出るのを見た。なんだ、私も彼らも同じではないか。なのにどうしてこんな邪険にするのだろう。終いには鉄のものと奇声で追い立てられた、仕方がないから後退りをすると後ろには火が轟々と燃える扉が差し迫っていた。 「私を燃やしたいの?」  そうなんだね?私が植物で、薔薇で、棘棘だから。あなたの大切なヒトを奪ったから。私は忌々しい取り替え子だから。そう言うのにそのヒトは奇声を上げるばかりでなんにも伝わってないみたいだった。  ヒトは這いずりながらもなんとか私を追い払おうと足掻いている。部屋の隅では私が先ほど殺した骸がばらばらで棘だらけのまま転がっている。背後で燃え盛る炎を見ながらどうせならここで焼け死ぬのもありだと思った。なぜなら私はこちらでも必要とされなかったのだから。あんなにも美しく飾り立てられた花籠に入れられ誰にだって可愛がられるようにと願われたオレンジ色の薔薇の種だったというのに。なのにあちらへの帰り方ももう分からないのだから。それにこちらで尽きてしまえばもう二度とあちらに還ることはない。もしもあちらへ還ることができたとしても私は所詮取り替え子の代替品でありカーニバルの余興に過ぎない、もう既に彼方には私の代わりが居座っている。その子は私よりも美しいだろうか、私よりも美しい花を咲かせることができるんだろうか。それとも歌が上手なんだろうか、香りで彼らを癒すんだろうか、私にはない、誰にも負けないものを持っているというのだろうか。ここで燃えて灰になったなら風に任せて空を飛ぼうか、だって私は鞘翅は持っていなかったから。私はここにひとりしかいない、ひとりだけで立っている。蕾が付いて薔薇を咲かせた、その花が枯れた暁にはきっと小さな実も宿る。それで充分ではないか、充分では、ないのか。ないものねだり、ないものねだりだ。ヒトに頬を鉄で打たれた。花弁が血の泉に浮かぶ。蔦は相変わらず私の言うことを聞かない。赤くなり、傷になる。ぼうぼうと、焼かれる。振り上げられる殺意、私はまだ恐れすら知らないまま。ただただ咲き乱れたままだ。けれどもう、これももう。 「もうすぐで、おしまい」  私の世界の、終わり。種子も挿し木も遺せないまま。振り翳される、影。さよならだ、短かった。それでも一輪咲かせられたこと、それだけが救い。私は全てを、閉じる。  ヒトがぴたり、静止した。鉄のものが床に落ちる。ぴしゃん、ぴしゃん、鮮血が滴っている。ゆっくりと顔を上げると、この世のものとは思えないほどに美しい顔をした女が太い蛇の尾でヒトの体に絡んでいた。女の顔は鏡のように左右対称で恐ろしいほどに整っていた。ただひとつ異なっている点は左右の瞳の色であった。彼女の右の瞳はエメラルドのように深い緑で左の瞳はサファイアのように深い碧色をしていた。私はそれを、右、左、右、左、と盗み見た。女が少し尾に力を込めたかと思うと、ヒトのあらゆる箇所の関節が外れて肉の中の骨がぱきんと折れてみるみる粉々になっていく音がした。女は薄く笑んで私から目を離さないままだった。髪の短いヒトの最期は細い首の骨が皮膚を突き破って事切れた。先程まであんなに喚いていたのになんて呆気ない最期なのだろう。女は気まぐれに私から視線を外したが私は女を見つめ続けていた。女は気にした様子もなくヒトの足を拾って口に入れたがすぐに吐き出して、美味しくないわと床に放り投げた。そして私が無意識のうちに蔦で刺し殺した髪の長いヒトの元へ這っていき下顎を外して右腕を体の内へ内へと飲み込み始めた。私は聞いた。 「…それは、美味しい?」  女は全て飲み込んだ後で、「お食事中に話しかけるものではないわよ」と人差し指を立てた。そして、やっぱり肉は男より女に限るわと口元の血を拭いながら左脚も体内に収めた。私が静かにしていると満足したのか部屋の中央でとぐろを巻いて髪を弄り始める。 「たまには誰かがお膳立てしてくれたものを頂くのも良いものね」などと言う。  ほら、締め上げるのって案外疲れてしまうし。毒でも勿論良いんだけれどあたしのが回った頃って血の味がすっかり変わっちゃっているのよん。もう、ままならなくて困っちゃう。  私に話しかけているのか、それとも溜息と独り言なのか分からなくて私は結局ぺらぺらと喋る蛇の女を見ながらずっと押し黙ったままでいた。女は金色の長い髪を艶めかせて微かに口の端を上げたまま窓の外を眺めていた。 「それにしても久しぶりにこちらへお散歩も来るのも楽しいわねん。気まぐれってやっぱり大切だわ、美味しいものも沢山食べられたし」  お腹いっぱいで、しあわせ。鱗も艶々光っていてきらきら、あたし惚れ惚れしちゃう。もう今なら死んじゃっても良いくらい。きっとあたししあわせすぎて蕩けてジッタイのないシカバネになっちゃう。そんなことを言いながら女は器用にヒトの目玉をくり抜いて口に放り込んだ。 「貴女も食べる?水晶体が滑らかつるつるで美味しいわよん」  女が長い爪で串刺しにしたもう一方の目玉をすっと差し出してきた。私はそれをおずおずと両手で受け取り口に入れる。 「どうしてヒトの目玉がふたつあるか知ってる?」  私が首を振ると考えてみてと言われたので、「誰かと分かち合えるから?」 「正解。お利口さんね」とにっこり微笑まれて安堵した。こっくりと目玉のゼリーを飲み込んだ。女は弾むように尾を打ち鳴らして高らかに笑う。  今日の貴女は大正解よ、明日はどうか分からないけれど。今日のあたしの気分は誰かと分け合いっこしたかったのよん、けれど明日には貴女を殺して全部独り占めしたいなんて思うかもしれない。うふふ、なんてね。  私には女の言うことがさっぱりわからなかった、けれどゼリーは美味しかったし何が来ても女がやっつけてくれるような不思議な感じがしていた。蔦もすっかり落ち着いて木の椅子に纏わり付いてはいくつか蕾までつける始末だった。  ところで、貴女。女がそう私を見た。 「あたし、綺麗かしらん」そんなことを突然言うので私は心の底からびっくりした。息を飲んで、彼女の宝石のような瞳を左右どちらも見つめながら「きれい」と恐る恐る言葉を返した。すると「貴女も、綺麗よ」なんて言うので私は心底びっくりした。私は綺麗な生き物なのだとその時生まれて初めて知った。こんなに綺麗な生き物から綺麗だと言われたのだ、きっと間違いなはずはないと思った。女が音もなくとぐろを解いて私の元へ這ってきた。頬を掴まれて長い爪で花弁を毟られたけれど恐ろしくはなかった。だって蛇は花は喰わない。 「人間の血を飲んだわね」  嘘をつく理由もなかったので小さく頷いた。良い子ね、あたし利口で素直な子は特別好きなの、と女が私の頭を撫でた。 「あたしと一緒に来なさいな」  もうそんなんじゃあ、どうせあの腐れた庭では生きられない。あの無秩序な花園では人間の体液なんて御法度も良いとこ。 「だからね、あたしの横で侍らせてあげる。良いかしらん、リヴェルタ・ユレン」  まあ拒否するなんてこと、はなから貴女にはできないのだけどね。あたしだけの可愛い妖精の亡骸さん。  女は私を気に入ったのだ、女の笑顔を見て私はそう思った。宝石の瞳はきらきらと輝いていたし、その瞳の中に幼い私がゆらゆらと映っていたから。だから私に拒否権などなかったし、どうして女が私の名前を知っているのかなんてちっとも気にならなかった。このひとの傍に居られる。傍で咲いていいと赦しをもらえたことだけが本当に本当に嬉しかった。そして女は幼い私を腕に抱き子守唄を歌ってくれた。私は浅くゆるく眠り女の体に蔦を柔らかく巻き付かせた。美しい橙色の薔薇が女の体の至る所で咲き乱れた。そうして薔薇の蛇は血の跡を長く引き摺りながらヒトの世を静かに去った。  女は私に何篇もの御伽話を語って聞かせた。同じ物語でも終わりが違っていたり、めでたしめでたしのその続きまで話してくれることもあったから全然退屈しなかった。たくさんお飲み、可愛い子。私が枯れかけると決まって女はそう言って豊満な乳房を咥えさせた。私は喉を鳴らして蛇の乳を飲んだ、味は薄く仄かに血の匂いがした。そしてたまに花弁を千切られた、花占いをするのだと言って私の蕾を毟ってしまった。女の乳を飲むたびに私の花は鮮やかな橙色へと変わっていった。占いなんて分からなかったし星の数えもどうでもよかった。女の唱えるスキ、キライ、スキ、それを聞きながら眠りについた。全ては女の気まぐれで、その気まぐれが私の世界の全てだった。  幾星霜、隠り世と呼ばれる熱く暗い魔界へ辿り着いてもなお、私は美しい女の顔を下から見上げ続けていた。私を血の沼から掬ってくれたひと。私を炎と灰から救ってくれたひと。誰よりも美しい、秘密の花園、バイカラー。それがファティマとの出会い、私とおねえちゃんとの思い出の始まり。  おねえちゃんからはふたつの月が浮かぶ魔窟で様々なことを教わった。宝石の目利き、紅茶の淹れ方、朝彼女を薔薇の香りで起こして、夜彼女の胸元に付けるブローチを磨くことまで。白いブラウスは派手過ぎない上品なレース生地、藍色がかった斑模様の彼女の鱗を邪魔しないものが望ましい。  食事の際と地底湖での水浴びの際は決して話しかけてはならない。「だってお行儀が悪いでしょう?」  ディナーの後のカクテルは甘め、ショートグラスには新鮮な目玉と私の花弁を入れることを忘れない。「そちらの方が見目麗しいもの」  お化粧は薄化粧、それも私の仕事。蔦を使い化粧筆で薄く粉をはたいて目元にはラピスラズリのラインを引く。「折角だから髪と鱗の色に合うものに選ばなくちゃね」  最初は彼女のことをなんと呼ぶか悩んだ。彼女は私の恩人であり、宝石であり、怪物であり、そして同時に主人であった為だ。私は彼女の常に左斜め三歩後ろ、マントを羽織る際はその裾を持つ従者、入浴した彼女に妖精達を擦り潰して拵えた紅色の固形石鹸を手渡す薔薇の花。彼らをあちらの世界から何匹か連れてくるのはとても簡単だった。私の香りはそんなに良い香りなのかすぐに寄ってきては罠にかかってしまう、くらくらと酔っ払い蔦で巻き取っても気付きやしない。 「貴女はそれくらい強かったのよん。だから小川に流されたのね」  岩の上で丁寧に彼らを擦り潰している時、おねえちゃんからそう言われた。何がと聞くと、惑わせる力が、と答えられた。妖精が数匹練り込まれた石鹸は僅かながらの芳香を漂わせていた、それこそ目を瞑れば気付けないほどの。けれど香炉のあの方からは良い顔をされていないようだった。命を用いた香りなど冒涜的だ、と一度おねえちゃんが咎められていたところに遭遇したことがある。けれどおねえちゃんはけらけらと笑って、 「そもそも生きていないお前が何を言うの」  そんなだったからに違いない、香炉の方にあんなものの傍に居るのはやめなさいと眉を顰めながら事あるごとにそう説得された。これからの棲家はわたくしが見つけてあげるから、と。私はどうしていいか分からなくてただそれが収まるまで首を横に振り続けた。彼女は強く気位が高く、そして何より私は既におねえちゃんが居ないと生きてはいけないようにされていたのだった。 「離れられない」  もし離れたとしても、 「生きていく意味が無くなります」  その言葉を聞いて香炉の方は悲しげに去った、幽霊のように香りだけ残して。その夜おねえちゃんに抱き寄せられて共に眠った、頭を撫でられ額にキスを落とされた。彼女は冷たく暖かかった。その時、彼女は私のおねえちゃんなのだと思った。私のおねえちゃん、私だけのおねえちゃん。私を守ってくれた、救ってくれた、こうして色んなことを教えてくれる、今だって腕の中で愛してくれる。私のおねえちゃん。大好きなおねえちゃん。  おねえちゃんは変温動物なので温かい場所を酷く好む。特に溶岩がまだ冷めやらぬ地帯や湯水の滴り落ちる鍾乳洞の穴ぐら。すぐに細やかなレースをはらりと脱ぎ捨てて気持ちが良いわなどと言いながら伸びをする。それを見守るのは良いのだけれど、ただひとつ彼女がすぐに眠り込んでしまうのはいけない。おねえちゃんは酷く痛みに鈍感で火傷しても気が付かないのだ。最初は肉が焼けるような音がして驚いて眠ったままの彼女をひっくり返すと腹板が焦げていたのだった。私は水に浸した自分の花弁を傷に当ててレースを裂いてから丁寧に巻きつけた。棘だらけの私の蔦がおねえちゃんを傷つけるかと思ったが玉のような彼女の肌は酷く強かでそんなことはなかった。あらあらと彼女は笑った。 「心配しているの?可愛いリヴィー」  おねえちゃんは私を愛称で呼ぶことを好んだ。どうしてかは分からない、けれど私はそれがすごく嬉しかった。リヴェルタというのはあまりに薔薇のような感じがしていたし、ユレンほど私はふわふわしているわけではなかったから。おねえちゃんがよく怪我するから私はよく花弁を千切った、千切ってレースを巻くたびに彼女への手当が上手になった。そんな顔しないで、あたしのリヴィー。すぐに治るわ、古い皮を脱ぎ捨てればこんなのなんてことないのよん。そんなことをおねえちゃんはのらりくらりと言ってのけた、きっと体が冷えて硬くなるよりも焼け焦げて溶けてしまった方が彼女にとっては良いのだろう。  彼女は百年に一度の周期で洞窟の仄かに暖かな場所に寝転がりめっきり動かなくなる時期がある。それを見たのはきっかり三度だから、私はおねえちゃんと三百年一緒に居たことになる。それが訪れるのは必ず夏の前、ふたつの月が重なり闇が深々と落ちる夜に訪れることが多い。その前から彼女の食欲はだんだんと衰退していき欠伸を繰り返しては、いつもは輝いているバイカラーの瞳が曇ってしまう。目がよく見えなくなるからか彼女は嗅覚と温度に頼り始める。 「そこに居るのね、リヴィー」そう言われるので、はいおねえちゃんと私は返事をする。 「朝露を飲ませて。貴女の花弁に付いたものだけが良いわ」  それ以外は、何も要らない。私はそっと花弁を千切っておねえちゃんの口元に持っていった。こくこくと喉を鳴らす彼女の姿はいつかの若木だった私を思い起こさせた。おねえちゃんが白いブラウスを脱いでしまう、下半身の鱗がぼんやりと浮いてきていた。ざり、ざり、と硬い岩場に擦り付けて肢体をくねらせる、頬は紅潮し息は荒くなっていく。 「心地が良いわ」  そこに居てリヴィー。目を離さないで、あたしだけを見ていて。ずるりと、古いものが剥け始める。死んで動かなくなったものの下で彼女の新しいものが蠢いている。重なったふたつの月が少しずつ離れていってまた夜の帳の中で重なり、それを三晩繰り返した。その間おねえちゃんはぬるい洞窟の中で湿気と共に嬌声をあげながらゆっくりと新しいものになっていった。私は決してそれを手伝わなかった、綺麗な水と薔薇の芳香だけを彼女に与えた。そして棘だらけの蔦で彼女の頬を優しく撫ぜた。 「ねえリヴィー」 「はい、おねえちゃん」 「あたし、綺麗?」 「ええ、勿論」  こんなんでも?こんなになっても?  ええ、もちろん。 「おねえちゃんが一番綺麗です」  晒し者なんかじゃない、見せ物なんかじゃない。カーニバルの一時の余興なんかじゃない。面白がってハンカチを振る泣き真似、凍った水に浸食されていく恐怖、誰からも愛されるようになんてお粗末に願われた花籠、全て。私はおねえちゃんと出会って新しいものに生まれ変わることができた。この命をおねえちゃんが拾ってくれたから私はこうして貴女の傍に居られる。それが例え貴女の根底に鎮座する気まぐれそのものだったとしても。それでも私は貴女の傍から離れない。貴女に水を与え続ける、貴女の傍で咲き続けてみせる。貴女が私を要らないと言うその日まで。そしてその日の夜、おねえちゃんは艶めく新しいものに生まれ変わった。  ある時私はおねえちゃんに問うてみたことがある。ねえ、おねえちゃん。 「どうしてあの時私を助けてくれたの」  おねえちゃんが退紅のカクテルを傾けている。助けた?あたしが?と聞き返される。きついアルコールの匂いがした。 「助けた覚えなんて、ないわ」 「おねえちゃんがあの時拾ってくれなかったら、私は今ここに居ないから」  ああ、と納得したように頷く。あの時の肉が酸っぱい奴らのことねん、思い出したわ。そしてきらきら輝く宝石の瞳をにっこり細めて、「気まぐれよん」とそう言った。  良かった、と心の底からそう思った。何か大きな大義名分が彼女の中にこれっぽちも無くて。私には到底理解できないであろう何かが貴女の中に蔓延っていないで。私の使命はおねえちゃんの傍に居ること。貴女のそのサファイアの中に私と一緒にいる理由が存在していたのなら私は本当に困ってしまうのだから。  おねえちゃんの髪の毛や身支度は毎日私が整えていた。特に真っ直ぐ伸びた金色の髪は丁寧に丁寧に扱っていた。櫛を通すと何の引っ掛かりもなく腰まで流れ、それはまるで黄金の滝のようだった。おねえちゃんはその長い髪を酷く気に入っていたけれど、それと同時に食事の際口に入るのをとても嫌っていた。だから私は毎日のように彼女の髪を頭の上でカチューシャのように編み込んだ、その上から金製の冠を差し込めばもう彼女を邪魔するものはいない。彼女は月に一度だけ、その髪の美しさを保つために北へ少しだけ遠出する。そこで初めて銀色の人魚に出会った。 「やあやあ牙の乙女じゃない。今宵も泉に髪の毛を浸しに来たのぅ?」  おぐしは女の命だもんねぇ。あれれ、随分と良い匂いがするね?新しい子分でも連れてるのかな?そうへらへらと陽気に笑う人魚の両眼は黒い糸で縫われていた。全身輝く銀色なのにそこだけ漆黒の縫い糸だった、けれど不思議とすぐに見慣れてしまった。 「この子はチェンジリングなの、だけれど元の世界にも戻せなくってね」  ふぅん、事情諸々諸刃の剣ってこと。  そういうこと。話が早くて助かるわ。 「じゃあまたねぇ、橙色のローゼちゃん」  るんっと手を振って人魚はゆらゆら水中の暗がりに消えた。その後黙っておねえちゃんの洗髪を手伝った、泉は透き通っていて底が見えるようなのに水底に引き摺り込まれそうになった。 「どうしてそんなに茫としているの、リヴィー」  そんな風におねえちゃんが私に問うことは珍しかった。いつもならあたしのリヴィー、可愛いリヴィーと愛でてくれるというのに。 「さっきの…銀色のひとに…ちゃんとばいばいできなかった、って思って…」  どうしてだか、それをおねえちゃんに言うのはとても居心地が悪かったことだけをはっきりと覚えている。何故かは分からない、いや分かっていたけれど見ようとしなかっただけだ。だって私はおねえちゃんの所有物なのに、そんなワタクシテキなことを思ってしまったのだから。おねえちゃんは良いのよと優しく言って私の頬を撫でた。私は心底ほっとして泣けないのに泣きそうになった。そんなこと気にしなくて良いのよ、リヴィー。悪く思う必要なんて何処にもないの。だってね、手なんか振り返さなくていい。またね、なんて言わなくていい。貴女は私の横でただ黙って咲き続けていればそれで良いの。 「これから先も、ずっと」  一度だけ、おねえちゃんの毒を飲ませてもらったことがある。丸フラスコにおねえちゃんが自ら注いだもので、その時右耳に髪の毛を掛ける仕草が星のまたたきみたいで美しかった。おねえちゃんは毒を持っているのに獲物を仕留める時は味が変わるからと言って鱗の尾っぽで締め殺すことを好んだ。けれど毒の味が嫌いだったわけではないみたいで時折ワインに数滴垂らして食後に飲んでいたこともある。どうして毒を使わないのかと尋ねたら、深く考えたことなかったわと本当かどうか分からないことをにこにこ言いながら私を引き寄せた。けれどね愛しいリヴィー、ひとつだけはっきりしていることがあるとするならば。 「あたしにとってこの毒はそこらに転がっている装飾品と同じようなものなのよ」  あたしのこの藍色の毒はね、この洞窟中に散らばっているルビーのネックレス、金の指輪、サファイアや瑪瑙の髪留めと変わらないのよ。 「だって貴女もそうでしょう?美しいものにはなんだって鋭い刃がある」  これは世界の決まり事よ。 「あたし達は同じなのよ」  そう言って私の棘を荒々しく喰い千切った。水しか飲んでいない私の体からは鮮血が吹き出した。私は蔦を抱えて思わず地面に膝をついた。上から、痛い?と問われたので、はい痛いですと正直に答えた。素直な子が好きだと彼女がそう昔言っていたから。そう、と答えられて藍色の液体が入った丸フラスコを差し出された。あたし、イタイとかアツイとかってよく分からないのよね。 「けれどそんなに苦しいのなら飲みなさい」  すぐにきっと楽になる。あたしの為に。飲んでくれるわよね、可愛想なリヴィー。  千切られた所からどくどくと血が流れ出ていた。目の端からちかちかと光が覆ってくるのが見えておねえちゃんの口元と目の前で揺れる藍色に吐き気がした。  飲めないの?  …のめます。  飲まなくても、良いのよ。  のませて、ください。  私は不安定なフラスコを受け取ろうと蔦を伸ばした。彼女はそれを尾の先で巻いていて私が蔦を伸ばすたびにするりするりと躱された。そんなんじゃだめよ、あたしだけの可愛想なリヴィー。棘だらけの蔦で受け取ろうだなんて無礼にも程があるわ。もしガラスが割れちゃったらどうするの。それであたしが怪我しちゃったらどうするの。折角あたしが喰い千切ってあげたんだから。 「棘の無い蔦で受け取りなさいな」  私は唇を結んで鮮血滴る蔦を伸ばした。ああ、あの人魚みたいに糸で口を縛れたなら。私は水しか飲まないから食いしばる為の歯など無いのだ。冷たい丸フラスコのガラスが傷口に酷く滲みた。おねえちゃんは優しい、おねえちゃんは優しい、そんなおねえちゃんが私は大好き。だって私をあんな地獄から救ってくれたひとじゃないか。私を胸に抱いてくれる、私の頬を撫でてくれる、こんな私を美しいと言ってくれる。おねえちゃんが大好き。おねえちゃんが大好き。おねえちゃんが、大好き。私の愛しい、ただひとりのひと。私はフラスコを口に付けて喉に引っ掛かる藍色を全て彼女の為に飲み干した。それは甘い死の味がした。けれどどうしてだか、不思議なことに私は枯れなかった。運が良かったのか、それとも花には効果がないのか、無知な私には何も分からない。きっと問うても彼女は教えてくれやしない。けれどおねえちゃんはあの時、私が死んだって構わないと思っていたことを私はちゃんと分かっている。  そして三百年が経ち、あの庭のことも小川の音もヒトの肌の色もすっかり忘れかけていた頃だった。私はおねえちゃんの呆気ない気まぐれで、さっくりとこの魔窟に捨てられたのだった。 「私のこと、誰もリヴィーって呼んでくれなくなっちゃったの」  香零さまと歪ちゃんが私をじっと見つめている。ふたりと一緒に居れば私は安全でいられるだろうか、はたしてその安全は幸福に繋がるのだろうか。私の棘はふたりを傷つけられない、本当は私だって誰も傷つけたくなんてない。けれど私の棘は言うことを聞かない、だって私とこの棘は別物。美しい私の美しい刃。おねえちゃんが私から離れていったのも、もしかしたら何処かで私がおねえちゃんを傷つけてしまったから? 「ユレンはリヴィーって呼ばれたいの?」  そんなことを香零さまに問われた。北の風が湖面を揺らした。もしそうならわたくし達もそういう風に呼ぶけれど。本当にそう、ならね。彼女は微笑んだまま、私は子供だからその真意も掴めないまま。 「…分かんない」  だって今までおねえちゃんの傍にしか居なかったから。おねえちゃんにしかそう呼ばれたことがなかったから。 「だって私には、おねえちゃんしかいなかったんだもの」  呟く、けれど残酷、空鳴りに掻き消えてはくれず。 「本当にいなくなっちゃった今でも、君、まだあいつがいる体の話をしてる」歪ちゃんがにこにこと笑った。私はぞっとした。 「聞いて。君のおねえちゃんはもういないんだよ。認めなよ、ねえ。捨て子のリヴィー」  きゃはは。ぶんっと蔦がしなった、棘には返しが付いている。一度刺さったら簡単には抜けやしない、沢山の血が出るだろう、だって内側から肉を抉るのだもの。それはそれは痛いだろうと思うよ、だけど今の私の心に比べたらそんなの比じゃないと分かるはず。できるものなら並べてみせてよ、さあ今すぐ。  けれどその矛先にその獲物は居なかった。香零さまがすんでのところで歪ちゃんを泉に突き飛ばしたのだった。人魚は無抵抗に大声で笑いながら水中の闇へと消える。私は振り返る。 「邪魔するの、香零さま」 「そうさせていただくわ」 「おともだち、だから?」  いいえ。 「図星、のようだからよ」  星が弾ける、今私はどんな風だ。彼女の瞳に映る自分を捉える。まるで異形だ、これじゃ怪物だ。ぎらり光る棘の蔦を何本も携えて相手の命を奪うことだけを考えている。これじゃあ誰にも気に入られないはずだ。誰も、誰にも。おねえちゃん、おねえちゃん!早く早く、迎えに来て。怖いもの全部追い払ってよ、ねえ。 「はいふたりとも!おわりおわり〜」  泉から顔を出した歪ちゃんがまたしてもぱしゃんと水の粒を降らせた。きゃっと香零さまが袖で自分の身を守る。無邪気な薔薇は少し頭を冷やしたほうが良いね。冷たい水が顔にかかって身体中に浸透していくのが分かる。 「ちょっと歪っ、折角のお着物が濡れちゃったじゃないのよ!」  綺麗な水仙柄が気に入ってたのになんてこと…。 「良いじゃん、本体は濡れないんだしさあ」  細かいことぴいぴい言ってると嫌われるよぅ。 「そういう問題じゃないの!全くもうっ、着替えなくちゃならないじゃないこの非常識人魚!」 「さっきまでリヴェルタ・ユレンをどうにかこうにかしようとしてた奴の言い分かねえ、これが」  きいきい怒っている煙のカミとへらへら笑いながら芸達者にも宙返りする人魚を見ている。幸福かと、私は問う。私は今幸福か、と。ともだちと居るのは幸福か。おねえちゃんと居る時よりも幸福か。けれど柔らかな言い合いをするふたりを見て思う。いや、きっとそれらを比べてはならないのだ、だってそれぞれは私にとって違う憶い出なのだから。異なる思いで、憶い出になっていくはずなのだから。 「ごめんね、歪ちゃん」  装飾品の刃を向けたりして。 「ごめんね、香零さま」  毒の棘で噛み付いたりして。  あら、良いのよと彼女がからりと笑った。 「だってわたくし達、お友達でしょう?」 「トモダチトモダチって、コウは本当に意味分かって使ってるのぅー?」と歪ちゃんが茶々を入れる。貴女は本当に一言余計よ、と香零さまが彼女の額をぴんっと弾いた。 「あいたた…全く本当にボウリョクビンボウヤクビョウガミ〜…」  わたくしは貧乏でも疫病でもないわよ。毅然とした香零さまの言葉にも歪ちゃんは全然反省した様子はなく、あのねー友達っていうのはねぇー、と話し始める。昔変なオーサンショーウオってのに教わったんだけどさぁ。 「たまに引っ掻いたり噛み付き合ったりするものらしいよぅ。なんでもコネコの喧嘩みたいなものなんだって!まあ歪、コネコって見たことないんだけどねぇ」  ちっちゃくて美味しいらしいよぅ、コウもいつか食べてみたいよねー?  嫌よ、そんなヘンテコリンなものわたくし要らないわ。絶対食べない、結構です。  そんなこと言ってコワガリケムリ〜。  う、うるさいわね、別に怖くなんて! 「…私、」  そんなふたりの会話を聞いていたら自然と言葉が溢れた。きょとんとしたふたつの表情がこちらを向いて跳ねる胸、震える声。 「…もしかしたら、知ってる…かも」  自信は、ないけど。でも。 「生まれ故郷の庭に、不思議な生き物、沢山いたから…だから、もしかしたら、その中に…」 「ええっ、それってもしかしてあの例の庭のことよね?ずっと行ってみたいって思っていたのよ」と急にるんるんの香零さま。 「へえ、歪が行った時は見なかったなあ。じゃ今度さんにんで探しにでも──」 「はあ!?歪、貴女行ったことあるの!?」 「あれ、言ってなかったっけぇ?」  聞いてないわよ!そうだっけぇ?驚愕した顔の香零さまとへらっと首を傾げる歪ちゃん。 「第一あなたこの泉から離れられないじゃない!それにこのわたくしを放っておいてまさかひとりで抜け駆けなんて!」 「まあそれくらい普通でしょお〜」  行き方くらい教えなさいよ!ねえ!  ん〜コウには内緒にしとこーっと。  肩を掴まれて振り回される歪ちゃん、飛沫が飛び散る。香零さまの背中越しに私に向かってにまにま指を二本突き立てて差し出してきた。何のサインだろう、けれどおずおず私は蔦で真似てみせた。 「それにしてもユレンがあの庭のこと知ってるだなんて!びっくりだわ」  かつてないくらいにこにこで雪駄でぴょんぴょん兎のようにはしゃぐ香零さまにびっくりする。 「香零さま、あそこに行ってみたいの?」 「ええ!だって噂じゃあ色んな植物が生えてるって聞いたことがあるもの。今にお香の瓶がいっぱいになるわ、買い足しに行かなくちゃならなくなるわね」  それにほら、配合も調合も蒸し方や焼き加減、全部に違いを出したりしてね。きっととっても楽しくなるわ。ほら、ここって草木も生えない不毛の地だから。特にこの北の大地なんて本当にそうでしょう? 「好きなものになるとすぐこれなんだから。ぺちゃくちゃお喋りカナリヤみたい」  籠に押し込んで炭鉱に連れて行ってあげようか、内緒で。そう、くすくす。 「ちょっと、全部聞こえてるわよ歪?」  ひやりと睨まれた歪ちゃんだったけれど、おーコワイコワイ〜なんて言ってまるで真に受けていない。それにしても植物の一本も生えないこの地に香零さまが定住しているのはどうしてなんだろう。もっと南の方に下ればまだ幾分か違うだろうに。 「そういえば聞きそびれていたけど」という彼女の声に私の思考は閉ざされる。 「わたくしに黙ってあの庭に行っていたらしいこと、説明してもらおうじゃない泉の人魚さん?」 「やっだなぁ〜そんな怖い顔してたらリヴェルタ・ユレンに嫌われちゃうよぅ?ほら口元隠さないで笑って笑ってぇ」  急に矛先が向けられて私はじたばた慌ててしまう。 「えっえっ歪ちゃんやめてよ!私嫌ったりなんてしないよ!?」  大丈夫よユレン、安心して。というわけで残念ね、歪。そう言ってはらりと袖を下げる、私はぞわわと血の気が引く気がした。 「…わたくしはいつだって儚げな微笑みを浮かべているのよ?」 「…あっちゃっちゃ、さっきまであのはしゃぎようだったのに急に自分で儚げとか言っちゃってこのケムリ様は…」 「観念なさい、この魚!へらへらするのもいい加減に──」  はあと呆れる歪ちゃん、それに掴みかかろうとする香零さま、あたふたする私。 「わー!ふたり共やめて!だめだめー!!」  どすんっと顔から泥濘に突っ込んだ。水気を多く含んだ柔らかい土で良かった、怪我はしなかったけれど、「い、痛い…」。  突然歪ちゃんがあひゃひゃーと大声で笑い出した。「最高だよリヴェルタ・ユレン!こりゃあ傑作中の傑作!これ歌にしてもいいかなあ!?」 「きゃー!ごめんなさいユレン大丈夫!?こんなに泥まみれになって…!ちょっと歪!!笑ってないで水で綺麗にしてあげて!」  香零さまの煙でふわりと抱き起こされた、はいはいと息を切らす歪ちゃんの瞳の縫われた糸の合間から細々雫が垂れている。 「いやぁ、君は本当に愉快だねえ。こんな子だったなんて初めて知った、オトモダチになれて光栄だよ」  水を手で汲んで私の頬を拭き取る。泥が水滴になって落ちていく。涙みたいだ、涙なんて流せないけれど。流したことさえないけれど、そう思えた。私はぺたんと地面に座り込んだ。 「…ふたりは、私と友達になれて、良かったの?」  勿論よ、何言ってるのと香零さまが笑う。 「いつものわたくし達の小競り合いを本気にして、増してや体を張って止めてくれようとするなんて」  こんな優しいお友達、他には居ないわ。  そぉそぉ。はい、おおかた取れたよ。 「そんなやつ、こんな魔窟じゃあすぐ付け込まれて喰われちゃうからねえ、貴重だよぅ。だから仕方ない、今度里帰りという名の小旅行でも洒落込もうか」  ええっあの庭に…?と思わず引っ込む私。 「大丈夫かな?石を投げられたりしない?」 「だいじょーぶだいじょーぶ、我々はなんていったってケモノノケモノなんだからさあ」 「そうよ、なんて言ったかしら…。ああ、そうだ、ハグレモノって言うのよね」  そうやってさんにんであの庭への旅行の約束をした。この約束があればなんだってできる気がした。私のいつものデモデモダッテも泉の底に深く沈んで薄く溶けていくような気がした。私はふたりの笑顔を見ていた、ふたりの笑顔は優しかった。友達というのは優しいものなのだということをこの時初めて知った。  歪ちゃんという人魚はのらりくらり歌ってばかりの女の子だと思っていた、でもこうやって内緒のお巫山戯をしてくれる子だったなんて知らなかった。私がわざわざ飲まなくてもいいようにはしゃぎに隠れて何度も泉の水を降らせてくれる。香零さまも、そう。今まではこんなに沢山笑われるような方だって知らなかった。本物のカミサマだと思っていたのだ、けれどそれはどうやら違うみたい。カミサマは信じるもの、でも私は何も持っていない。今はふたりを信じたい、そんな自分を見ていたい。  ふたつの月がぽっかりと浮かんでいる。おねえちゃんと離れてからどのくらい経ったのかもう分からなくなってしまった。枯れる前でいいからもう一度くらい貴女に会いたい。だから、心なんて何処にあるのか想像もつかないけれどそれでいい。私の心の蓋がゆっくりと開いていく音がする。  
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