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 お菓子もジュースも用意した。  コウタに「手ぶらで来てもいいからね」と伝えたけれど、ドアチャイムは鳴らなかった。  何日経っても、子どもの指でボタンが押されることはなかった。  いや、一度だけ。  小さい子がぐぅっと背伸びして押してくれたことがあるけれど、それは庭に飛び込んでしまった紙飛行機を取らせて欲しいというお願いだった。  怖いおばさんに怒られるとでも思ったらしい、怯えたその子に紙飛行機と共にちょこっとお菓子をあげたら、にっこり笑顔になって、元気な声を聞かせてくれた。  嬉しい。  素直にそう思った。  家の中で騒がれた時は、うるさいと思った子どもの声。元気にはしゃぐ子どもの声。  それが、今は愛おしい。  きっと、再びリビングが騒がしくなったなら、私はまた、頭にマグマを飼うのだろう。グツグツと温度を上げて、うるさいと思うのだろう。  噴火しそうになったなら、お父さんの出番だ。私にひとりではない幸せを感じさせてくれる、ゆりかごの出番だ。  彼はマグマを、受け止めてくれる。  怒りと幸せは、背中合わせだ。  当たり前のようにそこにあるから、贅沢に溺れて幸せが見えなくなる。だから、本当は幸せなはずなのに、幸せの裏に張り付いた、不都合ばかりに意識を絡めとられてしまう。  ――明日、終わってしまうとしたら。  今、マグマが暴れ狂うことが起きたとして、けれど、明日終わってしまうのなら、そんなことも愛おしく思えるかもしれない。  難しいことではあるけれど、そうして今を楽しむのは、誰にとってもいいことだ。  自分のためだけではない。親の、大人の背中を見て育つのだろう子どもにとっても、きっといいことなのだと思う。  結局、賑やかな声を響かせてくれたみんなの親の顔なんてはっきりとわからないままだけれど、そんなこと、今となってはどうでもよかった。いや、何かあった時には困るのだけれど、でも。  実の親たちは見られなかった、聞くことのできなかったキラキラした瞬間を、私は味わわせてもらえたから。  私は、家族が今日も元気に帰ってきますようにと願う程度の愛しか持っていない。その程度の愛しか持っていないと思っていた。  しかし、見方を変えれば私は、いつ何時も、家族が元気であることを願えるほどの愛を持っているのだ。  不幸せな偶然に絡め取られることがないようにと願う。度を越えれば依存と言えるだろう、難しい願いを、ずっと抱き留め続けるだけの愛を。  お友だちを家に呼ぶのは、いつまでだろう。  きっといつか終わってしまう。  だから、今を抱きしめて――。  今日は、鳴るだろうか。  誰かの指が、私の耳を弾ませてくれることを祈って、待つ。  〈fin〉
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