君の影

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「先生、お茶をお淹れしましょうか」  仏前に供える水を乗せた盆を差し出しながら尋ねた。  先生は涼やかな切長の目元を和らげて微かに頷く。すぐに、と身を翻しかけて、僕は仏間に続く襖に視線を据えた。 「先生、先生はどなたとお住まいなのですか」  引き出しから線香を取り出していた先生の背中が止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。 「誰とも。友永君。私は一人暮らしだよ。君もよく知っているだろう」 「でも」  僕は仏間の襖を伺う。微かに、ほんの微かに、あちら側に気配が動いた気がしたのだ。 「誰もいないよ。そうだろう?」  先生は僕の目をじっと見つめた後で、長い睫毛をふっと下ろした。  拒まれたのだと、すぐに判った。くるりと向けられた背中に、僕は何も云えなくなった。  先生が奥様を亡くされて、もうずいぶん経つのだと聞いたのは、僕が雇われてすぐのことだ。  簡単な身の回りの世話と家の片付け、先生の食事を用意するだけの簡単な仕事。学業の合間の小遣い稼ぎには丁度よい。 「なかなか男子学生が見つからなくてね」  と笑った先生に理由を尋ねるまでもない。まだ若く、眉目秀麗な先生の元に女学生などが通ってきたら、よくない噂が立つばかりか、熱を上げられても困るというわけだ。 「家政婦さんでも雇えばよいのに」  ふと疑問を感じてそう云うと「あれが喜ばないからね」と仏間をそっと見遣った。  先生が日に日に痩せ衰えていると気づき始めたのは、夏の終わりの頃だった。  大学が夏季休暇に入り、それまでよりも長く時間を使って、庭に繁った雑草をむしり、仏間以外の家中を開け放って季節外れの大掃除をした。せっかくなので朝と昼にも食事の支度をするようになり、必然的に、先生と過ごす時間も長くなる。  一日三度、今までよりもまともな食生活をしているにもかかわらず、元から細い先生の体躯が、夏の日差しに削られるように細くなっていた。 「夏バテだよ、暑いからね」  蝉時雨に汗ばむ額を手の甲で拭って、先生は静かに笑った。僕は夕飯の献立を少しばかり手の込んだものに変えるべく、祖母に料理を習い始めた。  春に始めたこの仕事も随分と慣れ、近所の奥様たちとも顔見知りになり、夕飯の買い出しに出る商店街でも馴染みになった。幾人かが僕を先生の息子だと勘違いしていることに気づいたが、先生がそのままにしておきなさいと云うので、曖昧に笑ってやり過ごす。  それほど先生の生活に溶け込んでも、仏間に入ることだけは、決して許されなかった。僕がいる目の前で、先生が仏間の襖を開けることすらない。  朝と夕に先生に云われて、仏前用に茶と小さな白飯を用意するが、僕がいる間は、先生がそれを持って席を立つこともなかった。  中元でもらった素麺を昼飯に茹でていたら「君も食べていきなさい」と初めて先生がそう云った。  差し向かいに座ってしまった自分の軽率さを心中で罵りつつ、ちらりと先生を盗み見る。仏間を背にして座した先生は、硝子の器に盛られた素麺を美しい顔で無感動に眺めながら、静かに箸を持ち上げた。その痩せた頼りない指先が、夏の日差しに炙られるのを、僕はぼうと眺めていた。  その耳に、かさり、と衣擦れの音がする。仏間の襖の向こう側で。  はっと顔を上げたが、先生は涼しい顔で麺を手繰り、その薄い唇で吸い込んでいく。 「先生」 「早く食べてしまいなさい」  僕の言葉を遮るように閉じた瞼は、蒼く、美しかった。  溶けた氷が、麦茶のコップの中で、からりと音を立てた。  秋の葉が落ちるように、先生は美しく枯れていく。  いつしか、仏間から聞こえる衣擦れは、足音と気配を伴うようになっていた。  僕はもう、何も云わない。先生は聞こえないふりというよりむしろ、聞こえるのが当然とでもいうふうに、問いかけようとする僕を目で制するのだ。なぜ訊くのだ、と。  足音がひとつする度、先生の影は剥がれて薄くなり、仏間の気配が濃く色づいていく。  こほんと零れる咳の度、先生の魂が身体から落ちてしまうのではと、僕は気が気でならない。  仏間の襖にもたれて疲れたように目を閉じた先生の襟首を掴む白い手が、その隙間から伸びてくるのではと、僕はそっと先生の肩に毛布をかけて隠そうとする。屈み込んだ首筋に、視線が刺さる。うなじの毛が、ぞわりと逆立つ。  僕は、先生を護るように、その頭を抱いた。  仏間に供える茶と菓子を用意して、先生に盆を渡す。黒々とした闇を固めた羊羹が、ぬっとりと冬の日に光る。  物言いたげたな先生に背を向けて、僕は台所へ歩み去る。 「君、学校はどうしたんです」  ほら、きた。  僕はなんでもないふうで、素気なく言葉を返す。 「休学しています」 「何故」 「心配だからですよ、先生が」 「私が?」 「たかだか茶と菓子の乗った盆にも難儀しているのに、平気だなどと仰らないでしょう?」 「私なら、平気だよ。君も知っているだろう」  淫美に笑ったその眼差しで、僕が夜に仏間の前に立ったのを、先生が知っていたのだと悟った。  置き忘れた鍵を取りに戻った日、襖一枚隔てた濃くねっとりとした闇の中から、苦悶の呻きに似た声が、静けさが満ちた夜に這い出していた。  あの夜が頭蓋を掻き乱し、僕は脱兎の如く、冬の中へと飛び出した。  冬の日は白く白く、どこまでも白く、そうして耳の中が煩いほどに、静かだった。  その日は朝から雪が降っていた。  先生はもう、湯のように薄い粥しか召し上がらない。  それでも菓子を所望したので用意した。あの仏間の影に、もはや影のような先生よりも生命力に溢れたあの影に食わせる菓子を、経木から取り出し皿に盛る。 「僕が持っていきましょうか」  歩くのもやっとな様子の先生の、隈の濃く浮いた顔はそれでもなお美しく、大丈夫だと儚く笑って、僕を拒んだ。  仏間の前で僕に背を向け、立ち去るのを待つ先生の肩が、わずかに震える。  襖の向こうの影が、隙間から滲み出ようと爪を立てる気配がする。  僕の指が先生の肩に触れる直前、先生が、小さく呟いた。 「もう、私は、自由になりたいのだ」  横顔も見せずに先生は初めて僕の眼の前で仏間の襖を開け、暗い闇に身を捩じ込んだ。  それきり、先生が呑まれた仏間はしんと静まり、二度と開くことはなかった。 「それで、君は菓子に毒を入れたというのかい」 「ええ、そうです。先生の助けになるかと思い、仏前に備える菓子に毒を」  友永という学生は、ぼんやりとした笑みを浮かべてそう応えた。  ええと、と巡査は頭を掻いて、難しい顔をして友永を睨む。  確かに仏間では男が倒れて死んでおり、菓子は仏間に供えてあった。だが、無理矢理齧らせたような形跡はなく、男が食べたのだとすれば、自ら進んで口にしたのだろう。 「アレが毒に気付いて先生を襲ったのか、離れがたくて先生がアレと心中したのか、僕には、判りかねます」  「だが、なあ」  仏壇は閉ざされて、菓子は何故か畳に敷かれた座布団の前に置かれていた。まるでそこに誰かが座してでもいたかのように。  友永がふと顔を上げ、座卓を振り返った。 「先生、お茶を淹れましょうか」  困惑した巡査もつられて座卓に視線を投げた。  冬の陽の光が差し込む辺りに、黒い影ができていた。それは人のようにも見えるし、ただ、庭の木の長く伸びた影のようにも思える。黒い影はゆらりと揺らぐと、歩み寄った友永に寄り添った。 「君、警察署まで来てもらわねばならないよ」 「ええ、でも、僕もこれを、沈めてしまえばなりません。先生の、忘れ形見ですから」  友永は、淋しく微笑んだ。  茶を淹れてくる、と中座した友永は、それきり姿を消した。  数日後、遠く離れた山の中で、冷たくなった友永の身体が見つかった。  白く雪の積もった風景に、黒い影だけが行き場を無くして、静けさの中を漂っていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!