1.一つ目の記憶の欠片

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 ひまわり畑を歩くこと数分、私は森の中にいた。青々と茂った木々が空を隠すように伸びていて、小鳥の囀りと風に揺れる枝葉の音が心地よい。草がぼうぼうと生える獣道は足場が悪いけれど、不思議と怖いという感情はなかった。  前を飛んでいるミカヅキは「このまま真っ直ぐだから大丈夫だぞー」と安心させるように声をかけてくれていた。記憶の無い自分を励ましているようでなんだか少しだけ嬉しかった。  前へ前へと進んでいくとぱっと視界が明ける。目の前に現れたのは一本の桜の木だった。  大きな池の中心に咲く桜の木は見上げるほどで、風が吹くたびに花弁を散らしている。まるではらはらと舞う雪のように静かに水面に落ちていく。  桜の木の幹には立派なお社が建っていた。小さいながらも何処か神聖な雰囲気を醸し出しているのを横目にそっと池に近づいて顔を向ける。  艶のある黒髪を肩で切り揃え、ぱっちりとした瞳に肩を出した白いワンピース。自分の姿を見てやっと自分という存在を確かめた、私ってこんな顔なんだと。頬を触って体温を確認し、水面に映る自分の顔をじっと見つめる。 「桜」  ふと、声がして顔を上げるとお社の前に誰かが立っていた。  光に当たって少し焦げて見える長い髪を一つに結い、黒地に金の刺繡が施された仕立ての良い着物を着た青年がいる。すっと整った顔立ちによく映える琥珀色の瞳が私を優しげに見つめていた。  懐かしかった。ずっと会いたかったような、そんな感情が胸に広がっていく。  桜の木と岸を繋ぐ朱色の橋を青年は渡って近寄ってきた。私が見上げてみれば、青年はふっと微笑んだ。その時、「あ、私は彼を知っている」と何かを思い出す。記憶の無い中、温かさが胸を満たしていく感覚を。 「水神龍様、桜が大変なんだ!」 「どうした」 「桜の記憶の欠片が散ってしまったんだよ!」  ミカヅキが慌てて訳を話せば、水神龍様と呼ばれた青年は一瞬だけ曇った表情をみせるも、何かを納得したように「そうか」と頷いた。  寂しげに、悲しげに彫刻のように整った顔が歪む。どうしてそんな顔をするのだろうか、私は不思議で。だから、「どうしたの?」と聞こうと口を開いてから閉じた。何故だか、それを聞いてはいけないような気がして。 「記憶の欠片はこの妖かしの国の何処かにあるだろう」 「見つけられるの?」 「あぁ。妖かしたちに協力してもらえば、きっと……ただ」  水神龍はそこで言葉を止めた。言うか、言うまいか、考えるように間を置いて。辛そうに眉を下げる彼を私はただ、見つめることしかできない。  彼は私のことを知っている。記憶の欠片など探さなくとも教えてもらえばいいと思わなくもない。けれど、教えてくれるとは思えなかった。彼の琥珀色の瞳がそれを許してくれそうにないと感じたのだ。 「此処にたどり着いて記憶の欠片を失ったのならば、それは思い出さない方がよいかもしれない」  そう告げる水神龍の悲しげに揺れる瞳に私は何故だか胸が痛くなった。どうして、そんな顔をするのか、分からないのに。
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