1.一つ目の記憶の欠片

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 ***  どこまで続くのか、この森は深いようだ。鳥の囀りのほかに獣の声がして、自分がどれほど奥へと入っているかを知る。鬱蒼と茂る木々から零れる陽の光を頼りにぼうぼうと生える草を掻き分けながら歩く。  足元が悪いのを気にしてか、水神龍が手を繋いでくれていた。これならば逸れることもなく、足を踏み外したとして受け止めれられるからと。その優しさをありがたく受け取って彼の手を引きながら足跡を辿った。  暫くして草だらけだった獣道から広い道へと出る。舗装されてはいない地面が剥き出しになった道に森を抜けたのかと空を見上げた。屋根のように覆いかぶさっていた木々が退き、青い空が広がっている。  のんびりと空の海を泳ぐ入道雲に煌めく太陽は夏の色を見せていた。季節は夏なのだろうと空を見て思う。また目を閉じて足跡を見遣れば、地面が剝き出しになった道の先へと向かっている。 「この先は明星村だ」 「明星村?」 「鬼の村だ」  赤鬼と青鬼が住まう村だと教えられて私が「私の事を知っている?」と質問すれば、「長が知っているだろうな」と水神龍は答える。  また、私のことを知っている妖かしがいるのかと道の先を見つめる。自分に記憶が無いことを知れば、長はどう思うだろうか。水神龍の時のような顔をするのだろうか。  なんだか悲しくなった。思い出せなくて、ごめんなさいと。そんな私の心境を察してか、水神龍は「桜は悪くはない」と頭を撫でる。 「記憶の欠片が散ってしまったのだからお前は悪くはないよ」 「でも、どうして散ってしまったのか分からない」 「……さっきも言ったけれど、思い出さない方がいい記憶というのもあるんだ。ここへ来た時に記憶がそれを望んで散ったのだろう」  この世界に居る時はそんな記憶のことを忘れて過ごしてほしい。そう願って散ってしまったのだろうという水神龍に、私はますます疑問に思った。この世界にそんなことができるかと。  私の疑問に水神龍は「世界の理というものがある」と答える。  一つ、人の世と妖の世が交わってはならない  一つ、迷い込んできた人間を惑わしてはならない  一つ、生きる世界を一つに選ばなければならない  一つ、妖の世に来た人間の記憶はその想いによって形を変える    他にもまだあるけれど、私の記憶が散ったのは「妖の世に来た人間の記憶はその想いによって形を変える」のせいなのだという。  傷を負うように辛く、胸を締め付けるように悲しい記憶ならば、その欠片を散らせて忘れさせてやる。優しく温かな喜び、幸せが胸を満たすような楽しい記憶ならばその想いと共に。  そういう理なのだと水神龍は目を細める。ならば、きっと私は傷を負うように辛い記憶があったのだろうな。それはきっと思い出したくもないものなのかもしれない。少しだけ怖かった、思い出すことが。でも、それでも取り戻したいと思った。  だって、何も知らないことの方が怖くて、悲しいから。私は私の形である記憶を、思い出を持っていたい。ぎゅっと水神龍の手を強く握ってから「行こう」と歩き出す。そうすると、水神龍は小さく息を吐いて手を握り返してくれた。
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