静かな蠢動

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 音は空気を伝わる。宇宙船の外には空気がない。船外活動中の宇宙飛行士たちの耳に届くのは、船内からの通信と宇宙服の作動音くらいのものだという。彼らは、光さえも帰ってこない無限の闇と、無音の世界で戦うことになる。  東京から甲府へ向かう特急列車は、一時代前の趣を漂わせていて、だから、無音に等しい。列車の走行音はおろか、ほかの乗客の寝息さえカットしてしまう遮音の発想は、時代を感じさせる。誰かのいびきを聞くのが最近の流行というわけじゃない。多少の走行音はあえて残す。中学に入るころにはどこもそうだった。実際この路線もきっとそうなっているはずで、今日はたまたま古い型の車両が走っていただけなのだと思う。さすがに、中央本線だし。  さっきトイレから戻るときに確認したが、ぱっと見、4号車にはほかに一人しか乗客はいない。制服の女の子が一人。車内の遮音性能はあまり活躍していない。でもなんだか得した気分だ。見せかけは広いシートが、本当に広く感じる。  手つかずの宿題のことを思い出しそうになったから、ひと眠りすることにした。  四〇代前半男性、夜間の耳鳴り。睡眠不足に悩まされ来院。床に就くと呼吸音のような音がする。一般的な治療を提案するも、次の来院時には症状が収まっている。妻と復縁したころから症状がみられなくなった。  二〇代後半女性事務職、職場での耳鳴り。仕事への支障を感じ来院。機械の駆動音がする。こちらも、異動を機に改善。  七歳男性、激しい耳鳴り。吐き気、震え、めまいなどの症状もみられる。学校から帰宅後、父の帰宅まで一人で家で過ごす。その間に症状。ダースベーダーの音、と訴えていた。『スターウォーズ』に登場するキャラクターで、機械によって生命維持している。その黒いマスクからする呼吸音のことか。一人で留守をするストレスが原因と考え、しばらく祖父母が面倒を見ることにした。すぐに症状は治まるが、祖父母が帰るとまた症状が出た。現在は再び祖父母が面倒を見ており、症状は出ていない。  私自身も同じ症状が出ることがある。家で一人、本を読んでいた時に起こった。モーターの駆動音と呼吸器の音。一人でじっとしているときに起こる。症状が起こり始めたのは4月ごろ。  心当たりがある。ほかの患者に問い合わせてみようと思う。  お茶を飲みすぎた。  トイレは車両の進行方向にあるので、戻るときに座席の様子が見える。だから、実に自然に女の子のほうを見る。  さっきは一瞬だったから気づかなかったが、彼女の制服にはとても見覚えがある。多分。いや、夏服の違いなんて遠目ではわからないが、でもあまりにもなじみがある。あれは僕の高校の制服だ。  同じ高校だ。人を助ける言い分には十分だと思う。 「大丈夫ですか?」  彼女の様子は明らかにおかしかった。顔面蒼白。定まらない視線。ぎゅっと組まれた手。声をかけられた彼女は、びくりと飛び跳ねたようにさえ見えた。 「その、大丈夫です」  言葉とは裏腹に、表情を取り繕う余裕はなさそうだった。 「……やっぱり、すいません、スマホの充電器を持ってたりしませんか?」 「持ってますけど、あ、持ってきます!」  彼女は充電器に自分のスマホを繋げると、手が震えてもたついていたので僕が繋げると、ヘッドホンを片耳だけ出してかけた。 「ごめんなさい、ありがとうございます。充電切れちゃって、音がなくなってしまって」  スマホが再起動すると、音楽を流し始めた。画面のジャケットに映るのはたぶんバッハだ。バッハではないかもしれない。  PEVAST(船外活動後ストレス障害)の問題は、宇宙開発の拡大とともに注目を集め続けてきたが、ついに宇宙旅行の分野においても対策が求められるようになるのだろうか。  著名な科学雑誌Brain Researchに掲載された論文が、世界中に衝撃を与えている。宇宙空間における遊泳体験に参加した観光客の約30パーセントが帰還後耳鳴りなどを訴えており、これがPEVASTと考えられるというのだ。その主な症状は宇宙服の作動音によく似た幻聴で、深夜など周囲の音があまり聞こえない環境下で症状が現れる。著者のハリー・チカノビッチ氏は、周囲の環境からの音が一切伝わらない宇宙空間でのストレスが周囲の静寂という形で再現されることが引き金となって宇宙遊泳時の記憶を想起させていると考えている。症状はある程度の環境音や音楽、人との会話で抑制できることが多く、日常生活への支障は大きくはないとされるが、今後同様の症状が現れる人が増え続けることが予測され、PEVASTの防止や症状の出にくい環境づくりが様々な場面で求められていくだろう。  宇宙遊泳時、テザーが想定外に伸び、彼女は宇宙空間で孤立した。地球に帰還した彼女は、音の少ない場所にいると、血の気が引いて、震えが止まらなくなり、吐き気を催し、そして、宇宙服の動作音がはっきりと聞こえてくる。トラウマ治療を続けるうちに徐々に改善したが、今でも音を出してくれる道具が手放せない。 「電池の減りが早いのには気づいてたんですけどね……。買い替えればよかった。ご迷惑をおかけしてすみません」  彼女は微笑みながら言った。 「いえそんな……あの、俺、たぶん同じ学校です。北高ですよね」 「ええと、そう、北高です」 「やっぱり。いやその、同じだから声かけただけなんで、そんなに気にしないでください」  カーブに差し掛かり、車両が傾く。彼女はヘッドホンを外して、隣の席を指してどうぞと言ってくれた。この先は確か揺れがひどいからちょうどいい。 「でもほんとに助かりました。非常ボタンは押したくないし、ほかのお客さんが充電器を持ってるとは限らないので。ほんとにありがとうございます」 「いいんです……俺のスマホが安物でよかった」  あまりに謝ったり礼を言ったりするので、座ったとたんに居心地が悪かった。 記者「少し前にPEVASTが話題になったことをきっかけに、世間の騒音への見方は変わったと言われています」 夏井氏「ええ、その通りです。正確に言うと宇宙服の作動音に似た幻聴を訴える新しいPEVASTが確認されたわけですが、実際のところ、その患者はさほど多くなく、即座に影響を及ぼすものではないと言われていました。しかしこの一件が大々的にメディアで報じられたのをきっかけに、人々が身の回りの環境音に向ける目というのが少し変わったと言えるでしょう。雑音のない、クリーンな静寂よりも、ちょっと騒々しいほうをみんなが好むようになったんです」 記者「夏井先生は長きにわたって日本社会における騒音問題を専門とされてきたと存じますが」 夏井氏「いやねえ、商売あがったりだよね、ははは。僕は、たとえば、住宅街に隣接する公園における騒音とか、子供が騒いだりするでしょ、幼稚園保育園とかもそうだね。つまり人の居住空間と子供たちの遊び場の関係とかをずっと考えてきたんだけど、もしかしたらいろんなところを見直さなければいけないのかもね。もちろん、とても興味深いことだと思いますよ。他方で最近では、より一層静かな環境を求める人たちも出てきたようですね。人里離れた山奥に別荘を建ててみたり、防音設備やノイズキャンセリング機器を買い求めてみたり。そういうのにも関心を持っています」 「案内ですか?」 「そうです。まあ調べればいいんですけど、ちょっと不安で」  要するに彼女は、転校生なのだそうだ。8歳のときに東京に越して、また県内に戻ってくるらしい。今日は書類を受け取りに、届いたばかりの制服を着て、東京の引っ越し準備中の家からはるばるやってきたのだ。  屋根も遮る駅舎もないくそ暑いホームに、アブラゼミと列車の騒音が響いている。学校への案内というのは、宿題よりは楽しそうだと思った。 「どうしたんですか?」 「これ見てみなよ」 「……どうしたんですかこれ。どこも大手じゃないですか。しかも全部大口」 「この辺りは、都内で最も静かで、最も都心からのアクセスがいいみたいだね」 「確かに、ここらには線路以外何もありませんが」 「そうだね。でも、これはだめだね」 「え?」 「ここらに3つもホテルを建ててみなよ。鄙びた街があっという間に活気と喧騒に包まれる」  駅からはバスに乗って一六分、それから歩いて五分だとスマホが言っている。僕の記憶でも、バス一本で行けたはずだ。問題はバスの本数が少ないことで、駅前で日に焙られながら、冷やしキュウリが売られていたが食べたいと言い出せずに結局自販機で冷たいのを買って飲みながら、バスを待った。ひっきりなしに蝉が鳴いていた。駅前の通りを車やタクシーが走り抜けていった。  バスのエンジンは相応に古い様子で、窓はガタガタと揺れた。結構カーブが多いと伝えると、彼女は買ったポカリスエットで酔い止めを飲んだ。  子供のころ、一度だけ都心でバスに乗ったことがある。小学校の卒業文集には宇宙に行くのが夢だと書いてあるが、宇宙船のイメージの4割くらいはあのバスでできていた気がする。マンボウが泳ぐように、それでいてカツオのように素早い。水槽のアクリル越しの僕に水流の音は聞こえない。  暇だったのでそんな話をすると、そのイメージはさほど間違っていないようだ。ただやっぱり、車内はもう少し騒がしいようで、降車ボタンは音がなるし、地域情報と広告のアナウンスがひっきりなしに流れているらしい。 「東京は案外うるさいのかな」 「んー、たぶんね。思ったより騒がしいと思うよきっと。どちらかというと、私はこっちのほうが静かなところだと思ってたかも」 「へえ、それは意外」 「……もちろん、旅行とかで東京を出ることはあったから、そうじゃないのはわかってるんだけど、でも、イメージでね。あ、この辺に私の家がある。まだないけど」  駅からはまださほど離れていない。このあたりなら駅は徒歩圏内だし、軽い買い物には困らない。 「いいところだと思う。便利だし、街も雰囲気がある。それに、この辺りは割と騒々しい」 「親の仕事の都合で引っ越すことになったんだけど、候補がいくつかあって、転校先も変わってくるんだけど、せめてでもって私に決めさせてくれて……やっぱりここにしてよかったと思う」 「……あんまり期待しないで」 「いや、期待します」  バス停から軽く坂を上がって校門にたどり着くと彼女は振り返った。 「ほんとうにありがとう。ピンチ救ってもらったし、同級生にも会えたし。ほんとに運がよかった」 「なんともなくてよかった。休みが明けたら、また」 「そうだね。またね」  実際彼女は運が悪かったのだ。運が良ければそもそもスマホの充電が切れたりしないし、下手をすれば引っ越すこともなかったかもしれない。不幸に見舞われたところに、たまたま僕が居合わせて、たまたま充電器を持っていただけだ。でもそういうことは、言わないほうがいい。  充電器を貸したままだった。 二〇四七年八月二一日 警視庁管内交通事故 六三件 死亡〇名 負傷二名         二二日           四九件   〇名   一名        二三日           四七件   二名   二名 *自動運転車の普及以降、自動車が関係する交通事故件数は大幅に減少し、死者負傷者はかなり珍しくなった。 『都内で同時多発的自動車事故』 『自動運転システムに不具合か?』 『杉並区自動車事故 原因不明』 『ADシステム ドライバーを救う』 『事故防ぎきれぬ最新技術』 『蘇ったトラウマ 大規模事故防がれる』 アブラゼミ症候群  一般旅客用船外活動装備Wonderful Thoughtsを利用した宇宙遊泳の経験者の一部に見られるPEVASTの一種で、Wonderful Thoughtsの作動音に似た幻聴を伴う。二〇四七年八月下旬に日本の東京都杉並区を中心に起きた同時多発的自動車事故以降、その原因とする通説があるアブラゼミの発生にちなんで「アブラゼミ症候群」と通称がついた。  八月二一日、杉並区で二三二名が同時多発的に、過去に宇宙遊泳を行った際の記憶を想起し、著しい混乱と緊張状態に陥った。吐き気やめまい、悪寒から失神まで様々な症状が現れるケースも見られた。症状に見舞われた多くは、現実と過去の記憶の混同があったと述べている。  ADシステムは同症状を呈したドライバー、乗客の異変を感知し、速やかに退避、停止を実行した。複数の自動運転車が同じ状況に陥った場所では駐車スペースを確保できない事態が発生し、交通の乱れや手動運転者を巻き込む事故を招いた。  一連の症状や事故により膨大な件数の緊急通報が行われ、消防救急システムや交通への混乱は甚大なものとなり、大きな経済損失をもたらした。状況が改善するまで約3日を要した。  巷では、被害の原因は八月二一日に一五年ぶりに都内で発生したアブラゼミの鳴き声ではないかという流言がある。宇宙服Wonderful Thoughtsの作動音がアブラゼミの鳴き声に似ているという主張がなされ、PEVASTの症状の一つである幻聴と結びつけられたと考えられる。うーん、さすがにばかげてるな。  この程度の情報では記事にできない。  え? ああ、アブラゼミ。鳴いてるけど、俺は何ともないんだよね。俺の友達も、そいつも宇宙に行って帰ってきたんだけど、なんともないよ。  あー、なんかそうみたいね。だけんと、あんまり似てるとは思わなかったけどなあ。アブラゼミはアブラゼミだよ。 Like cicada? Ah......I'm sorry. I can't understand.  私たちは私たちの変化を冷静に分析し、予測し、制御しなければならない。               ハリー・チカノビッチ 2047.8.30 「え、なんで?」  気づくと彼女が横に立っている。一時間は経っていないだろう。思ったよりもかかった。きっと先生のだれかと話していたんだろう。ということは彼女の担任は小林じゃない。小林先生はさっき煙草を吸いに来た。なにしてんのお前、と言われた。ならばあと二人のどちらかだ。 「その、充電器を……」 「あ」  借りたものを返すのを忘れた人と、貸したことを忘れる人のどちらが悪いかと言われれば多分前者のほうだが、それはこの場合問題ではない。何せ彼女は二つのイレギュラーに襲われていた。緊急事態とアウェー。それに、ここで彼女を待つほうが宿題を片付けるより楽しい。宿題は何とかなる。あとで切羽詰まることと、今夜スマホを充電できないことを天秤にかければ……。  そういう御託を並べたわけではないが、僕らは馬鹿みたいに謝りあって、ついにおもしろくなってきた。 「お詫びとお礼にお茶でもどう?」 「ちょっとついてきて」  学校の裏門に回り、体育館脇の自販機でこそこそ飲み物を買った。それから古い特別教室棟に入り込もうとして、お互いに不安だったのであきらめてバス停で話をした。 「セミがすごいね」 「ね。毎年こんなんだよ。この季節になると、静けさを求める人の気持ちもわかったような気になる。あとカエルが鳴く季節」 「カエルがそんなにうるさいの?」 「うるさい。林中のアブラゼミを全部田んぼに押し込めた感じ。毎晩鳴く」 「うわ」  日はまだ高い。ヒグラシの声を聴かせたいと思ったが、彼女はきっと聞いたことがあるだろう。 「どうしてここを選んだの?」 「え?」 「ほかに候補があったんだよね。何で選んだのかなって」 「……進学実績かな」 「そっか。このあたりじゃ一番だったね。たしか。どこか行きたいところがあるの?」  彼女はちょっと考えている。彼女は僕に話すか否かを考えている。建前を考えている。そう僕が勝手に思っている。 「宇宙に行きたいと、思っててね」  彼女はどこを見つめるでもなく話す。少しだけ小さな声で。 「一番行きたくない場所なんじゃない?」  鉛筆削りが軋むような声で鳥が鳴く。 「一番行くのが難しいところ。でも」  それから彼女はしばらく考えた。僕はラテを飲み干さないようちびちびと口に含む。 「たとえばね。七年前に事故があったでしょ。きっと、私の記憶によると、あれからアブラゼミのイメージって変わったでしょ? でも、もっと前から、アブラゼミの印象は変わっていた気がしてて……多くの人は、アブラゼミを見て夏が来たなって思ったんじゃない? でも東京の人は多分そうじゃなかった。彼らを見ると自然が失われたことを感じていたと思う」 「……そうかもね」 「そう。だから、つまり、きっとそういうことはこれまでもこれからもずっと起こっていくと思う」  彼女はこっちを見て、ちょっとばつが悪そうに笑った。僕も少し考えて言った。 「ちょっとよくわかんないかも。……でも、楽しみだな。そう……もし、月で子供が生まれたら、その子はこの騒々しい地上をどんな目で見るんだろう、みたいな……?」  彼女の目が少しだけくっきりしたような気がする。こういうのを目が輝くというのだろうか。そうじゃないかもしれない。 「私は、そういうものを見たい。それか、変わってみたい。だからその一番先頭に行ってみたいと思った。まあ、半年後には、違うこと言ってるかもね」 「それはそれで聞いてみたいな」  それから彼女を駅まで送って、ホームまで見送った。 「休み明けからよろしくです」 と言って列車に乗り込んでしまった。  ホームは空になった。僕一人がただつっ立っている。風も遮るものもない日の光が街を焦がす声が聞こえる。いつもそんなかんじだ。ただ、楽しみだと思う。僕は結構ばかげているのかもしれない。
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