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私は音が聞こえない。
耳をなくした訳ではない。生まれつきのものなのだ。姿形は同じでも、周りと同じものを共有出来ないのは、なんとも寂しいものだった。
そう。羨ましくて、寂しい。マイクに向かって響かせる高らかな歌も、大切な人の名を呼ぶ声も、私には縁がないのだ。
目で見える世界の音を頭の中で想像しては孤独を感じ、落ち込む日々だった。
しかし知人たちは言う。こんな騒々しい世界はうんざりだと。
「上の階の物音がうるさい」
「興味のない世間話がうるさい」
「聞こえてくる悪口がうるさい」
なんて騒がしい世界だ、飽き飽きだ、と。
私にはそれがわからない。わかりたいのだが、わかれない。人々がこぼす不満さえ、私には音への欲求が高まる材料となった。
静かすぎる世界は、もう、うんざりだ。
だから、私は私を保存することにした。いつかの未来の、私に音を聞かせてくれるようになる時代まで。体を保存する技術があるのだから、これから先の未来なら、その方法だって編み出されるはずだと。
何年、何十年ぶりとも知れない光が視界を覆う。
タイムカプセルの電池が切れたのだろうか。それとも私が求める世界がおとずれたのだろうか。
カプセルから起き上がると、見渡す部屋の中にある物は変わらずそこに存在し、ただ、たまった埃や壁の亀裂、色褪せた家具の様子から、確実に長い時間が経過したことを理解する。
外に出てみよう。
街にはホログラムで映し出された看板や案内板が増えた気がする。地図記号のように何の店か一目でわかるマークも点在しており、以前より視覚情報が多くなったようだ。すれ違う人の服装も、個性的でビビッドな色合いのものが流行りなのか奇抜なそれらに、少し目がチカチカする。
しかし建っている店自体は私が眠る前とさほど変わらないようで、見覚えのある本屋や喫茶店を横切りつつ懐かしい気分になる。
けれど、角を曲がった先にあったはずのレコード屋はなくなり、新しくラーメン店が出来ていた。潰れてしまったのだろうか。
注意深く散策していると、ないものに偏りがあることに気づく。楽器屋、ライブハウス、ピアノ教室、電器屋のラジオやスピーカー製品。
『懐かしい格好をされていますね』
突然、声をかけてきたーー正確には私の肩をたたき、手にした小さな端末から投影された文字を使って話しかけてきた男性は、そう言った。
答えるすべをもたない私は戸惑った表情を浮かべる。それを察したのか男性は端末を操作する。
『いきなり声をかけたりして失礼。最近見かけないファッションだったもので。レトロな洋服が好きなので思わず呼びとめてしまったのです』
男性は会話を続けるが、その口が開くことはない。端末を器用に操り、文字で言葉をあらわしている。
『もしかして、タイムカプセルを使い眠っておられたのでしょうか?』
イエスかノーの質問ならどうにかなりそうだ。私は大きく頷く。
『昔とは変化したところもあって、驚かれたでしょう』
ふたたび私は頷くと、男性に疑問を投げかけるためラーメン店のある角を指差した。
『あぁ、そう言えば以前はレコード屋さんでしたね。でも、もう必要ありませんから』
言葉の意味がわからず、首をひねる。今度は電器屋を示し、両手を耳にあてるジェスチャーをしてみた。
『頭?耳?...あぁ、イヤホンのことですか?それなら随分昔に生産は終了しましたよ。ヘッドホンも同様にね』
何故、と首をかしげると、男性はさも当たり前かのように答えた。
『ないほうが静かでいいじゃないですか』
そうか。
男性の返答に、抱いていた違和感の正体を私はようやく理解した。
聞きたくないものを、騒がしいものを排除するために、人は世界から“音”を消したのだ。奏でるための楽器も、再生するレコードも、発するラジオもなにもかも、いらないものだと切り捨てて。
だとすれば、私はいつになったらみんなが“騒がしい”と言うそれを聞けるのだろう。それとも、もう、音のある未来は来ないのだろうか。
私からすればこの世界のほうが、目に見えて“騒がしい”と言うのに。
帰宅した私は窓から外を眺め、しばらく考えた後、心を決めた。
眠ろう。先にある世界を待つために。
カプセルの蓋を開け、中に入る。何年かかるだろうなどと数えるのはやめておいた。けれどこれだけは考えてしまう。
人類はまた、騒がしいものを排除してしまうかもしれない。だとすれば、次におとずれる未来はきっとーー。
蓋を閉め、ボタンを押した瞬間、嫌な想像が頭をよぎったが、すでに下がりゆく瞼をとめることは、出来なかった。
完
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