シクラメンピンクの挑戦状

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「いってきまぁす!」  玄関のドアを開け、一歩足を踏みだしてから、一ノ瀬(いちのせ)万里菜(まりな)は慌てて体を引き戻した。  6月になってすぐに梅雨入りはしたものの、ここ数日、晴れの日が続いている。  このまま空梅雨(からつゆ)になるかもしれないと思われたが今日はやっと、夕方から雨が降りだす予報となった。  傘、持ってかなきゃ。  傘立てから、お気に入りのドット柄の傘を抜き取る。  外に出たとたん、むわっと湿っぽいような外気が素肌にまとわりついた。まだ雨は降りだしてはいないが、灰色の雲で埋めつくされた空が本格的な梅雨の季節を知らせている。 「わっ、あと10分で駅に着かないと遅刻だ~!」  万里菜はリュックを背負い直し、駅に向かって駆けだした。            ◇  女の子たちの黄色い声援が、放課後の校庭に響き渡る。  そわそわと時間を気にしながら、万里菜は歓声をあげる女生徒たちにまじって、サッカー部の練習試合を観ていた。  彼女たちのお目当ては、サッカー部の3年生で主将の、京本(きょうもと)辰貴(たつき)だ。  京本が華麗なドリブルでディフェンダーを抜き去りシュートを決めると、歓声が一層大きくなった。  万里菜の隣で両手を握りしめながら京本を見つめていた中田智美(なかたともみ)は、今にも倒れてしまいそうだ。 「かっこいい~!!!やばぁ~!」  シュートを決めた京本は、両手を広げてグラウンドを走り抜ける。駆け寄るチームメイトとハイタッチし、集まった女生徒たちに向かって片手をあげた。  なるほど、確かにかっこいい。サービス精神も旺盛だ。  しかし万里菜は京本そっちのけで、なんとしてでもこの場を抜けだすタイミングを探している。  早く試合終わんないかな。サッカーの試合って何分間だっけ?それか、今すぐ雨が降りだして試合が中止になるとか。  祈るように空を見上げる。どんよりと曇ってはいるが、まだ雨の気配はない。それどころか、昼休みには晴れ間がのぞいていたのだ。  天気予報、はずれたかな。  校舎の時計を見上げると、16時をまわったところだった。 「万里菜、どした?キョロキョロして」  智美の隣にいた吉見葉月(よしみはづき)が、ぱっちりとした大きな目でこちらを見てくる。背の高い葉月に見下ろされ、万里菜は慌てて言い訳した。 「いや~京本先輩ってすごい人気なんだなって思って。ほら、教室の窓から見てる子たちもいるし」  万里菜がそう言うと、智美が興奮気味に顔を近づけてきた。 「だって、あんだけイケメンで背も高くて、運動神経も抜群で、性格もいいんだもん。人気なのは当たり前だよ。見てるだけで癒されるぅ」  目を輝かせている智美の視線の先で、また京本が対角への鋭いシュートを決めた。耳が痛いほどの歓声に包まれる。 「え、先輩こっち見た!今、絶対目ぇ合ったんだけどぉ!」  智美が、万里菜の左肩を手のひらでバシバシ叩いてくる。 「よかったね~智美」 痛みを(こら)えながらも万里菜は笑顔を作った。 「でもさぁ〜」  万里菜の右隣で歓声をあげていた川崎(かわさき)沙子(さこ)が、のんびりとした口調で言う。 「京本先輩、好きな人いるらしいんだよね」 「え、でも彼女がいるって話は聞いたことないけど……」  智美が眉尻を下げて反論する。  沙子はおっとりとした天然系だが、たまに空気を凍りつかせる発言をして万里菜をヒヤヒヤさせる。 「なんかぁ、先輩、その好きな人に拒否(きょひ)られてるって噂」 「誰そいつ。京本先輩を拒否るとか何様なわけ」  葉月が目を細めながら毒づく。 「まぁ、でも噂でしょ?好きな人っていうのも、本当かどうかはわかんないじゃん、ね」  万里菜は、智美と沙子を交互に見ながら言った。 「そうだよね、だってみんなの京本先輩だもん」  智美は気を取り直して、再びグラウンドの京本を見つめた。  はぁーーーーーーーー。  不穏な空気をなんとか脱したところで、万里菜は唐突にお腹を抱えた。 「いたた」 「何?急にどした?」 「なんかちょっとお腹痛いかも、なんだろ、お昼のお弁当かな」 「え、大丈夫?」  智美と沙子が心配そうに顔をのぞきこんできて、万里菜の胸がちくりと痛む。 「大丈夫!ちょっとトイレ行って先帰るね!ごめんね」 「一緒に行こうか?」 「ありがと!でもホント大丈夫!みんなは先輩観てて!まだ試合、続いてるからさ」  じゃっと言って手を振って、万里菜は昇降口へ向かって走った。  みんな、嘘ついてホントごめん! 心の中で手を合わせる。  でも、イケメンは五条悟(ごじょうさとる)だけでお腹いっぱいなんだ!  昇降口で上履きに履き替え、廊下を急ぎ足で進む。トイレを素通りし、職員室と保健室の前を抜け、校舎1階の北へ向かう廊下を急ぐ。  廊下を進むほど、なんとなく湿っぽい空気が滞留しているような気がした。  万里菜は廊下の突き当たりにある、科学室の扉を開けた。 「こんにちはぁ」 いつもの窓際の席に、会いたい人の姿がない。 あれ? 「万里菜、こっち」  声のした方を見ると、窓から最も離れた隅の方にある実験机に、才原(さいばら)ちとせが頬杖をついてこちらに顔を向けていた。  机には読みかけのコミックスが開いたままになっていて、それを支える指先が芸術的に美しい。 「ちとせ~!なんで今日そこ?」  ちとせは黒々とした長いまつげを伏せた。 「うーん、それが、うまく言えないんだけどさ、なんか最近、視線を感じるっていうか、監視されてるみたいな。だから今日は窓際はやめてみた」 「え?もしかしてストーカー?」  万里菜が思うに、ちとせは学校で一番の美少女だ。変なファンがついたっておかしくはない。  ついに世間にちとせの美しさが暴かれたか、そんなことを考える万里菜の横で、ちとせはいつになく不安げだ。 「大丈夫!ちとせは絶対に私が守る!」  万里菜は両腕を振りあげて力強く言った。それを見てちとせの表情が緩む。 「なんか万里菜が万里菜で脱力した」 「どういう意味~」  この、校舎の北側の(かど)にある科学室は、漫画同好会の部室になっている。  ちとせは、万里菜がこっそりこの同好会に顔を出すようになってから、はじめてできた趣味友(しゅみとも)だ。  最初はその美少女ぶりに驚かされたが、見かけによらないざっくりとしたしゃべり方や気楽な物言いは、ちとせの最大の魅力だと万里菜は思う。ふたりはすぐに打ち解けた。  万里菜もちとせも、三度の飯より漫画好き。暇さえあれば漫画のことばかり考えている、かなりのガチヲタだ。  だがそんな裏の顔を、キラキラしたクラスの女子たちに知られるわけにはいかない。漫画同好会だなんて、変人の集まりだと思われているに違いないからだ。  だから時には、クラスの華やかな女子たちにまじって、リアルのイケメンを鑑賞したり、お洒落なカフェで恋バナしたり、裏工作に余念がない。  しかしそうした裏工作中もずっと、次に読む漫画のことで頭がいっぱいだ。  万里菜にとって科学室は、ある意味聖地だ。  ちとせと向かい合って漫画を読む時間は、何物にも代えがたい至福の時だった。  万里菜は、ちとせの向かい側の椅子に腰掛けた。 首を伸ばして、ちとせの手元をのぞきこむ。 「わ、泥濘の食卓?ヘビーだね」 「万里菜は、今日は?」 「今日はアポカリプスの砦だよん」 「おお、名作」  万里菜はリュックから取りだしたコミックスを、待ちきれないといった様子ですぐさま開いた。  万里菜もちとせも、示し合わせたわけではないが、ふたりとも漫画は断然紙派だ。  もちろん電子も読むが、書店の、あの本棚いっぱいに詰め込まれた漫画本をじっくり眺めるのが好きだ。平積みを物色するのが好きだ。ページをめくるわくわく感、紙とインクの匂い、たまらない。  万里菜はすぐに漫画の世界に没入した。            ◇ 「万里菜、クッキー持ってきてるんだけど、食べない?」  半分ほど読み進めたコミックスから万里菜が顔をあげると、ちとせは読書用の眼鏡を外して机に置いた。  両腕をあげて伸びをしてから、通学バッグのファスナーを開ける。  ちとせが取りだしたのは、円柱型の透明のプラスチック容器に入ったメレンゲクッキーだった。小さく絞り出した形がかわいらしい。 「え〜!おいしそ!かわいい!おしゃれ!」 「お母さんがお客さん用に買ったやつが余ってたからさ」  万里菜は、一見、お嬢様然としたちとせを見つめた。おしゃれなクッキー、うん、すごく似合ってる。 「紅茶でもいれよっか」 ちとせが立ち上がる。  ちとせは、電気ポットの置いてある科学準備室へ向かおうとした。  ふと窓の外を見ると、いつの間にか雨が降りだしている。  万里菜も窓の方に顔を向けた。 「降ってきたねーーひぃっ!」 「ぎゃっ」  外を見た万里菜とちとせは、ほぼ同時に叫び声をあげた。  科学室から見える窓の外、古い部室棟の壁に、赤っぽい文字が浮かびあがっている。  文字はところどころ(したた)り、まるでおどろおどろしい血文字のようだ。  つい今し方書かれたばかりだというように、文字の表面がぬらぬらとして見える。  文字ははっきりと、「ち と せ」とひらがなで書かれていた。  ふたりとも両手で口元を覆い、窓の外を見つめたまま動けない。  その時、科学準備室に通じるドアが、音を立てて開いた。  再び叫び声をあげながらそちらを見ると、科学同好会の小芝孝二(こしばこうじ)が、ドアから顔をのぞかせていた。  3年生の小芝は、科学同好会のたった一人の部員であり、部長でもある。  科学室は、科学同好会と漫画同好会の共同の部室なのだ。 「何を騒いでるんだ?」 長く伸ばした前髪のすきまから、黒目がちな瞳がこちらを見ている。 「小芝先輩!大変です!あれ見てください、さっきまであんな字なかったのに、急にあんなのが書かれていて!」 「あぁ、あれか」 小芝は落ち着いた様子で窓の外を見る。 「あれは塩化コバルト水溶液で書いた文字だな」 「えんかこばると?」  万里菜はぽかんと口を開いて、小芝の言葉を繰り返した。 「さっきまではなかったと一ノ瀬は言うが、昼休みに俺がここに来たときにはすでに書いてあったぞ」 「え?そんなはずないです。あんなに目立つ文字、私が来たときには絶対なかった」  万里菜は不服そうに小芝を見る。 「ちょうどいいものがあるな。実験してみるか」  小芝は机の上に置いてあったクッキーのプラスチック容器を持ち上げた。  蓋を開け、中からクッキーではなく小袋を取りだす。その袋の封を切って、小芝は手に持っていた(から)のビーカーのなかに中身をあけた。  2ミリほどの小さな透明の粒がいくつも転がる。その中の3粒ほどが、青い色をしていた。 「それ、乾燥剤ですよね?」 「そう、シリカゲルだな」  そう言うと小芝は準備室に戻り、水の入ったビーカーと時計皿、ピペットを持ってきた。  そして、水の入ったビーカーからピペットで水を吸いあげ、乾燥剤に振りかけた。すぐにビーカーの上に時計皿を置いて蓋をする。  すると、ビーカーのなかで透明の粒がパチパチと音を立てはじめた。  粒がはじけとび、ビーカーの内側や時計皿に当たって、ガラス特有のカチカチした音を立てる。 「な、何してるんですか?」 「もう少し待ってろ」  小芝に言われるまま、万里菜とちとせはおとなしく実験の様子をうかがった。  ビーカーの中でせわしなく音を立てていたシリカゲルは、やがて静かになる。  音が消えたのを見計らって、小芝は蓋代わりにしていた時計皿を持ち上げた。  万里菜はビーカーのなかをのぞきこんだ。  砕けた透明の粒のなかに、ピンク色の粒がまじっている。青い粒は一粒もなかった。 「え、青だったのに、ピンクになってる!」 「そう、もともと青色だった粒は、シリカゲルの原料である二酸化ケイ素を、塩化コバルトで着色したものなんだ。塩化コバルトは、乾いた状態では青色だが、水分を含むとピンク色に変化する性質を持っている。そのため、シリカゲルの吸湿状況を把握するためのインジケーターとして用いられることがある」 「効果があるかどうかが色でわかるってことですか?」 「そうだな。シリカゲルの場合、青色の粒がピンク色になったら、電子レンジなどで加熱して水分を飛ばせば再び使用できる」 「知らなかった」 「あとは、身近なものといえばこれだな」  小芝は制服のポケットから、手のひらに乗るくらいの大きさのプラスチック製の密閉容器を取りだした。蓋を開けると、なかにはシリカゲルの粒と一緒に、水色の紙の束が入っている。 「中学の理科で習ったことがあるだろう。これは塩化コバルト紙だ」  万里菜は首をかしげた。小芝は構わず続ける。 「この塩化コバルト紙は保管方法に注意が必要なんだ。なぜなら、空気中のわずかな水分にも反応して、色が変化してしまうからなんだ。特に今の時季なんかは、放っておくと湿気で色が変わってしまう」  小芝は容器から紙の束を出し、実験机の上に置いた。しばらく見ていると、紙の端の方から少しずつ、うすいピンク色に変化していく。 「あの壁の字も同じだ。雨が降りだす前は、空気中の湿気によってうすいピンク色になっていた。だから放課後に一ノ瀬たちがここに来たときには、注意してよく見なければ気が付かなかったんだろう。そして、雨が降ってきたことで部室棟の外壁が濡れ、塩化コバルトはより多くの水分に触れ、濃いピンク色に変化したというわけだ」  小芝は、密閉容器に塩化コバルト紙を戻しながら、 「ついでに言うと、血文字のように垂れているのは、今日の昼休みよりも前にこの文字を書いた際、垂直の壁に粘性の小さい液体で字を書いたために、下向きに液体が(したた)り、そのまま乾いてしまったんだろう」 「よかった、怪奇現象とかじゃなくて」  万里菜はほっと胸を撫でおろす。だが別の疑問が湧いてきた。 「でも、どうしてあれを見てすぐに塩化コバルトだってわかったんですか?他にも赤っぽく変化しそうなものってありそうじゃないですか」 万里菜の言葉に、小芝はうなずきながら答える。 「最初に、昼休みにここに来たと言ったな。その時は一時的に晴れ間がのぞいて、壁に日が当たっていたんだ。だからあの文字は青色だった」 「なるほど、そういうことかぁ〜」  納得したようにうなずく万里菜の隣で、ずっと黙ったままだったちとせがつぶやく。 「でも、なんで私の名前が……」  自分の名前を勝手に壁に書かれ、ちとせは眉根を寄せてかなり嫌悪感をあらわにしている。  すると小芝は窓へ近づいて、 「窓をよく見てみろ」そう言って窓ガラスを(ゆび)さした。  万里菜も窓へ歩み寄り、小芝の指の先を見る。  窓ガラスには、降りだした雨が粒になって付着していた。雨粒はゆっくりと下へ落ちていき、また新たな雨がガラスに水玉を作る。  しかしよく見ると、不自然に雨粒が付着していない箇所があった。  万里菜は目を細めて首をかしげ、窓全体を見ようと頭を後ろに引いた。 「ん?なんか文字が見えるような」  雨が粒状になることなく、にじむように広がっている箇所を、目で辿るように見ていくと、 「L O V E?らぶ?」  万里菜の声を聞いて、ちとせも窓際にやってきた。 「……ほんとだ」  小芝は、ちとせがいつも座っている席に腰掛けた。そして窓を見ながら、 「ここに座るとちょうどこう読めるな。『ちとせ LOVE』と」  あっけにとられる万里菜とちとせに向かって、小芝は大真面目に言った。 「これはいわば、雨を利用した時限告白装置だな」  ちとせが長い息を吐いて、手近な席に座る。万里菜も緊張の糸が切れ、逆にニヤけそうになる口元を手で隠した。 「だが、これだと誰からの告白かはわからないが、って、どうやら心当たりがありそうだな」  見るとちとせが頭を抱えている。 「また、アイツか」  アイツ?  万里菜がちとせに問いかけようとしたその時、科学室のドアが勢いよく開いた。  見ると体操服姿の男子生徒がひとり、ドアに手をかけたまま満面の笑みでこちらを見ている。 「ちとせちゃーん!!」  明るい声が科学室中に響き渡る。 隣でちとせが小さく舌打ちをするのが聞こえた。 「雨降ってきたからさー!見てくれたかなって思って!」  背が高く、引き締まった体つきのわりに、やたら甘い顔立ち。 「え!京本先輩?!」  つい1時間ほど前まで、智美たちと一緒に観戦したサッカー部の練習試合で大活躍していた、あの京本先輩だ。  京本は、驚く万里菜にもにこやかな笑顔を振りまく。 「あ、こんにちは!君も漫同の子?ちとせちゃんがいつもお世話になってます。って、げ、小芝、ちとせちゃんの半径1メートル以内に近づくなよな!」  小芝を見つけるやいなや、京本は牽制するように間に割って入る。  小芝は、真面目くさった顔で一歩下がった。 「これでいいか?」 「ちょ、ふたりともバチバチしないでくださぁい」  万里菜は笑いをかみころす。 「バチバチしているつもりはないが」 「そうだな、最初から小芝は眼中にない」  そう言いつつ、京本は小芝に対する敵愾心でいっぱいのように見える。 「なるほど、謎が解けたな」  小芝がつぶやく。 「何の謎ですか?」 「ちょっと前から、京本がやたらとつっかかってくるのはなぜだろうと思っていたが、そういうことか。掃除の時間に雑巾がけをしていたら、強引に割り込んできて先に拭いたり、体育のランニングの時に、ドヤ顔で追い抜いてきたり」  そんなふたりの姿を想像して、万里菜は思わず吹きだしてしまった。  感情がいまいち読めない小芝を出し抜くのは、だいぶ骨が折れそうだ。 「そうだ。科学同好会だかなんだか知らないが、小芝がいつもちとせちゃんと同じ部屋にいるのがオレは許せないんだ!あの壁の文字はちとせちゃんへのラブレターなのはもちろんだが、小芝、お前への挑戦状でもある!どうだ!この、雨で浮かび上がる文字の謎、お前に解けるか?解けなければ、科学同好会は今すぐ廃部だ!」  喪黒福造(もぐろふくぞう)よろしく人差し指を突きつける京本に、小芝はさらりとした口調で言った。 「もうその実験は終わったんだ。今思い出したが、京本のお父さんは有名な陶芸家だったな?塩化コバルトは陶器の色付けにも使用される」 「くそっ、知っていたか!」 京本は机に伏して悔しがる。 「ちなみに窓ガラスの文字は、酸化チタンの親水性を利用して書かれたものだな」  それを聞いたとたん、京本は手を叩いて喜びだした。 「ブッブー!残念だったな、小芝。これは家にあった車用コーティングスプレーで書いた文字でした!」 「……」 「廃部だな!」  すると小芝は顎に手を当てたまま、窓ガラスを見ながらつぶやいた。 「市販のコーティング剤は、ガラスに塗布すると通常の洗浄では落とせないんだ。京本には専用クリーナーを買ってきて掃除してもらおう」  するといつの間にか帰り支度を終えたちとせが、無表情のまま同意する。 「そうですね、やった本人にきちんと掃除してもらいましょう、外の壁も。恥ずかしいので今日中にお願いしますね。それじゃ私は帰ります。お疲れ様でした」 「あぁ、お疲れ様」 「え!ちょっと待って、ちとせちゃん!」  呼び止める京本を一切振り返ることなく、ちとせは足早に科学室を出て行く。万里菜も慌ててちとせの背中を追った。 「お、お疲れ様でしたぁ!」  先輩たちに頭をさげ、万里菜も科学室を出た。ふたりきりで残された小芝と京本のやりとりを想像して、また笑いがこみあげる。  廊下の窓には途切れることなく、雨が当たっていた。窓越しに空を見上げると、暗い雲が空全体を覆い隠している。  万里菜は廊下の先に小さく見える友人の、凛とした背中を追いかけた。  まだしばらく、夏には遠いようだ。 (了)
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