彼の場合

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彼の場合

ガチャリ。 部屋の鍵を開ける。 「ただいま」 返事の返ってくるはずのない部屋に 向かって言うのが、 いつの間にか 習慣になってしまった。 冷蔵庫を開けながら、 何気なく その上に鍵を置こうとした時 〈ほら、 そうやってポンと置くから 出かけるとき探すんでしょ。 いつもの場所にかけて〉 君の口癖を思い出した。 わかってるよ。 二つ並んだフック 片方に鍵をかけると、 もう一つのフックに かかったままの 合鍵を見つめた。 君が置いていった合鍵。 僕は、その合鍵を手に取ると、 壁にもたれて じっと見つめた。 あれから 3ヶ月が経とうとしている。 君が、 部屋の合鍵だけを入れた封筒を ポストへ残し、 僕の前から姿を消してから。 何も変わっていないはずなのに、 部屋の中も 外の景色も、 何もかもが 色あせて見える。 空気のにおいさえ 変わってしまったように思える。 季節が変わったから? ちがう。 君が… いなくなってしまったから… 君はどこにいるの?… いや、どこにいてもいい。 笑っていてくれさえいれば。 その細い肩を震わせ、 一人きりで 泣いてなんかいないよね。 それだけが、 僕は気がかりなんだ。 ずっと、 君の笑顔だけを 見ていたかったのに、 「大好きだよ」って 何回も言いたかったのに、 君を泣かせてしまった。 君を一人きりにしてしまった。 僕を許して…。 そうしたら、 いつかまた、 僕の元に 帰ってきてくれるよね さよならを言っていないんだから、 帰ってきてくれるよね。 それまで、 僕はここにいるから。 こうして、 君に渡す合鍵を 大事にしまって、 ここにいるから。 それとも… もう、 僕のことは忘れてしまった? 彼女の場合 につづく
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