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海という単語を聞く度に思い出す。未完成な話。
君は友人と水族館に行った。どういう経緯か海の話になって、君の友人は海に行ったことがないと告白した。君はこのあと海に行かないかと提案した。海中を模した大きな水槽の前で。
君は近くの海はどこかと考えた。けれど考えるまでもなく、昔よく行った海が近いことを思い出す。電車を乗り継いでいった。
君はしきりに綺麗な海ではないことを謝った。気がついていなかったのだ。友人が本物の波の音を聞いて、ひどく感動していたことに。
しばらく、波の近くを歩いていった。君たちはサンダルだったので、細かい砂が入り込んだ。それでも友人はざくざくと進んでいく。君は白いシャツの背中がまぶしくて、目を細める。
砂浜の終わりが見えて、君はサンダルを洗うことを提案する。サンダルを洗うことさえにも、友人は興奮していた。こんな洗い場は海にならどこにでもあるのかと問う友人に、どこにでもあるよ、と苦笑する君はどこか楽しんでいる。
近くに森があった。木が生い茂っているというだけで、道はきちんとしている森だ。湿った足を乾かすついでに、君たちはずんずんと進んでいった。今度は君が先頭を行く。
君たちは他愛のない話をする。課題の進み具合はどうか。今は何にハマっているのか。あの人がどうだ。バイトがどうだ。この花の名前は何か。
陽が傾き始めていた。
君は帰ることを提案した。友人は飲みに行くことを提案した。後者が採用された。今までは飲みに行くだけの関係だったので、後者の方が君たちにとっての普通だった。
居酒屋でも、他愛のない話をしていた。最近観た映画の話。本の話。推しの話。ファジーネーブルって何で割ってるお酒なのかって話。
君たちは気の置けない仲だった。五年前の話だ。
現在は、まともに連絡も取っていない。
友人がどうしているのか、君は知らない。君は逃げるように住んでいた街を出ていった。嫌なことがあったのではない。ただ、なんとなくだ。
友人とはしばらく文通をした。一度は君の家にも訪ねてきた。だが気がつけば、ぷっつりと連絡がとだえていた。
君は次第に、社会の波に飲まれていく。仕事ではどんどんと昇格していき、新しい人間関係が築かれていく。友人のことなど遠い思い出の塵の一つになっていった。
けれど、君は知らない。
友人はいつまでもあの波の音を、他愛のない夏を、君の存在を、夢にまで見ていることを。
そして、告白すればよかったと思っていることを。
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