サプライズ

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 玄関のチャイムが鳴る。扉を開けると綿貫が立っていた。お疲れ、と中へ招く。 「折角のパーティーなのにひどい天気だな。靴下までびっちょびちょだよ」  そう言いながら廊下を歩こうとするので制止する。濡れたおっさんに家の中を歩き回られてたまるか。 「足は拭いてよ。ハンカチくらい持ってるだろ」 「持ってない」  いい歳した社会人なのにハンカチの一枚も持っていないのか。ちょっと待ってろと言い含めティッシュを取りに走る。リビングに入った時、まだかぁ、と声が聞こえた。苛立ちを覚える。 「お前さぁ、ハンカチとティッシュは持ち歩きな。子供じゃないんだから。エチケットだよ、エチケット」 「失礼な。仕事の時は持って行くぞ。田中ん家なら別にいいかって思っただけ」 「何で微妙に我が家を格下に見ているんだよ」  言い合いながらアホは足を拭いた。そんな調子だから彼女ができないんだ、なんて思ったが俺も独り者なので口には出さない。 「靴下は適当に洗って風呂場に干しておいて。どうせ泊まって行くんだろ」  俺の言葉に、まあな、と親指を立てた。うちで飲むのに泊まらないわけがない。もう一人の参加者である橋本もきっと泊まる。部屋の片付けも布団の支度も済んでいる。我ながら手慣れたものだ。 「それで、橋本は何時に来るの?」  綿貫が問うのと同時に俺のスマホが鳴った。橋本からのメールだ。内容を見て、綿貫の変わらない野生の勘に呆れる。 「あと三十分くらいだって」 「そうか。あ、それと例のワインは届いたか?」  その言葉に台所へ一緒に向かう。冷蔵庫を開けボトルを取り出した。落とすまいと力が入る。おぉ、と親友は歓喜の声をあげた。 「これこれ。前に飲んだ時は小瓶だったけど、今日はボトルで丸々一本か。贅沢だな」 「前のやつはお前が会社のお歳暮で貰ったんだっけ」 「そう。橋本が飲むなり絶叫したやつ。うめぇ、って」  忘れもしない去年の年末、忘年会でのこと。その時も会場は俺の家だった。このワインに口をつける度、橋本は、うめぇ、と歓喜の叫びをあげた。おかげで隣人から初めてクレームを入れられた。玄関で平謝りした後、リビングへ戻ってまだうめぇを連呼していたあいつに蹴りを入れたっけ。 「今日は橋本の誕生日会だから、俺達二人で奮発したんだもんな」 「一万五千円ずつ払ったけど、それだけの価値がこのワインにはある。勿論、うめぇを連呼するなら小声にしろってあいつには注意しておかなきゃな」 「いいサプライズになるぞぉ」  サプライズか。正直言ってあまり好きではない。やるのは面倒臭い。やられるのは苦手だ。お店だと注目が集まって恥ずかしい。内々だとしてもいい反応を返さなければならないので緊張する。しかしまあ、滅茶苦茶気に入った酒が急に出されたら驚きと喜びしかない。このサプライズは悪くないか。俺達もワインを楽しめるし。そうだ、と不意に綿貫が手を叩いた。 「酒を用意し忘れたことにしない? この家には一本も酒が無い。そういう設定であいつを迎えよう」  唐突な提案に首を捻る。酒は冷蔵庫一杯に買い込んである。準備は万端だ。朝までだって飲める。それを、一本も無いことにする、とは。こいつに出会ってから何度ぶつけたかもわからない言葉を今日も投げつける。 「何で」  綿貫が胸を張るのもいつものことだ。今日は良い方と悪い方、どちらへ転がるかな。あんまり良い方へ行ったことは無い気がするな。 「これもサプライズの一種だよ。酒が無いって言われたら、当然橋本は文句を垂れるわな。多分、こんな感じだ。雨の中、買いに行くなんて絶対に嫌だ。それに何で主役の俺が待たされなきゃいけないの。ちゃんと買っておけよ酒くらい。早く飲みたかったのに、しょうがないなぁ。こんな風にぶーたれる」 「そこまでは言わないだろ。いくら主役だとしても横暴過ぎる。お前、橋本のことをそんな風に見ていたのか」 「まあここまでじゃないかも知れないけど、とにかく機嫌は悪くなるだろう。そこへあいつが大好きなこのワインを差し出す。負の感情へ落ちた分、喜びへの振れ幅は大きくなる。何だよ、酒あるんじゃん。って言うかこれ、滅茶苦茶うめぇワインじゃん。そんな風に喜ぶ橋本の姿がはっきりと浮かぶ。素晴らしい。サプライズ、大成功」  余計なことをしなくても、このワインを見せれば橋本は喜ぶと思う。だが綿貫は目を瞑り、自分の思い付きに浸っていた。わかったよ、と頭を掻く。 「付き合ってやる。でも話はお前が進めろよ。言いだしっぺなんだから」  条件を示すと力強く握りこぶしを作った。 「任せておけ」  不安しかない。  橋本の来る時間に合わせて料理を温める。綿貫が、俺の好きなお店の唐揚げを差し入れてくれたのが嬉しかった。二人で支度を進める。まあ、そんな大層な作業じゃない。料理をテーブルに並べるだけだ。  メールを寄越したぴったり三十分後、再びチャイムが鳴った。扉を開けると橋本が立っていた。 「いやぁ、ひどい天気だな。靴下までびっちょびちょ」 「ハンカチは持っているか」 「当たり前だろ。いい歳した大人だぞ。綿貫と一緒にするな」  流石親友、察しが良い。良すぎてちょっと怖い。一方で安堵もした。もしこの家にいる三十路おじさんの過半数が濡れた足を拭かずに他人の家をうろつく人間だったら、大人として、友人として、二十分くらい立ち直れなかったところだ。 「靴下、適当に洗って風呂場に干しておいて。どうせ泊まるだろ」  おう、と即答した。今夜も長くなりそうだ。連れ立ってリビングに入る。綿貫が片手を上げた。橋本も応じる。この、いつも通りの空気の中、普通にワインを見せればいいのに。橋本は十分喜ぶぞ。しかしアホは俺に目配せをした。やれやれ。 「早いな綿貫」 「主役より遅れるわけにはいかないよ」 「別にそんなこと、気にしなくていいのに」  喋りながら橋本は腰掛けた。このままパーティー開始で良くないか。だが綿貫は、すまん、と唐突に手を合わせた。茶番の幕開けだ。 「つまみはちゃんと準備したのに、田中がうっかり酒を買い忘れたんだ。これから買いに行かなきゃならん」  唇を噛み締める。あの大馬鹿野郎、善良な俺を戦犯に仕立てあげやかった。ふざけんな。俺は冷蔵庫が一杯になるほど酒を買ったわ。重い思いを何度もして積み上げた努力と友情の結晶だぞ。冷蔵庫の中を見せてやりたい。しかし付き合うと宣言した手前、そうもいかない。まったく、橋本の機嫌うんぬんなぞどうでもよくなる。俺の方がよっぽどぶち切れているわ。 「え、そうなの? じゃあ三人で買いに行こうぜ。その方がいっぱい持てるだろ」  橋本はそう言うと、脱ぎかけた上着を羽織り直した。おい、全然ぶーたれないぞ。不機嫌の気配など欠片も感じられない。それどころか、もう玄関へ向かっている。靴下を洗う前で良かった、と廊下から声が聞こえた。 「おい」  綿貫へ静かに呼びかける。しかし空気の読めない親友は、怒れる俺の肩を何度も叩いた。ぶん殴られたいのか。 「どういうことだよ、話が違う。橋本、酒を買いに行く気満々じゃん。誰だよ、絶対不機嫌になるとか言った奴」 「お前だバカ」 「もう玄関へ行っちゃったし。早くない? あいつ、こんなに腰が軽かった?」 「いい傾向じゃねぇか。お前と違って」 「どうすんだよ。俺、足元がびっちょびちょの人に玄関で高級ワインを見せるわけ? 何その状況。意味わかんない」 「知るか。俺と橋本は酒を買ってくる。うっかり買い忘れちゃったから、な」  精一杯の皮肉を叩きつけ俺も玄関へ向かう。両手いっぱいの酒を買ってきてやるわ、こん畜生め。橋本は既にびっちょびちょの靴下とびっちょびちょの靴を装備していた。お待たせ、と手を上げる。天気、酷いんだよな。あぁ嫌だ嫌だ。橋本は気を利かせて先に外へ出てくれた。うちの玄関は狭いもんね。長靴を履く。こんなひどいお天気なのに、私達にお酒を買いに行かせるなんて、綿貫君ひどぉい。だから、酒もつまみも全部てめぇの奢りにさせてやるからな。覚悟しろボケナス。 「行こうぜ」 「サ、サプラーイズ」  出発寸前の俺達へ、か細い声がかけられた。ゆっくりと振り返る。綿貫が、例のワインを顔の高さに掲げていた。俺は外の橋本へ顔を向ける。 「綿貫は行かないのかな。もう二人で行っちゃおうか」  多分、俺が邪魔でアホの姿が見えていない。声は雨音にかき消されたか。無言で我が家の廊下を指差す。橋本は伸び上がり、俺の肩越しに覗き込んだ。 「は?」  まあそうなるよな。 「え、何あれ。何してんの。買い物、行かないの?」  俺を見るな。首を振り、綿貫を指さし続ける。説明は発案者に求めてくれ。 「あの手に持ってるの、酒? いや、あれめっちゃうめぇ酒じゃん。え、じゃあ酒、あるの? 田中が買い忘れたんじゃないの?」  だから何故俺を見る。腕でバッテンを作る。まあいい。ここだけは絶対に譲ってはならない。 「サプラぁー、イズ」  消え入りそうな声が聞こえる。テンションの低い、空気の死にきったサプライズ。我が家で何ちゅう醜態を晒してくれとんのじゃ。 「は?」  足元がびっちょびちょの主役は困惑している。そりゃそうだ。綿貫も自分で言っていた。意味がわからない、と。仕掛け人に意味がわからないなら事情を知らない奴の戸惑いは想像を絶する。やれやれ。 「二人共、取り敢えずリビングへ戻れ。酒はある。冷蔵庫一杯にな。橋本、二度も足を拭かせる羽目になってすまん。文句はあそこのミスターサプライズにぶつけてくれ」  床に正座をさせられた綿貫。それを椅子に座った俺達が見下ろしている。事情はわかった、と橋本は溜息をついた。 「でもさ、どうせサプライズをするならもっとちゃんと考えてよ。酒が無いと俺が怒り出すって、アル中の暴君かよ。綿貫にそう思われていたのは地味にショックだよ」  まあ二十年近い付き合いなのにアル中の暴君扱いされていたら悲しいわな。 「ごめん」  アホは土下座をした。素直に謝れるのはいいところだけど、そもそも謝らなきゃいけないようなことをするな。 「俺が好きなワインを買っておいてくれたのは凄い嬉しかったのに、あんな出され方ってある? 玄関で足がびっちょびちょの状態でさ、ちっちゃい声で告げられるサプラーイズ。意味わかんない」 「誠に申し訳ない」  謝罪が丁寧になった。反省の深さを示すためか。 「あと、普通に酒が無いって騙されたのが一番腹立つ。ごめんね田中、疑いもしなくて」 「そうね。買い忘れちゃったの? って一回俺に確認して欲しかった。微塵も疑わず、見事に騙されていたもんね。田中なら酒を買い忘れて当然だ、って認識なの? そう勘繰るくらい、橋本の納得と行動が早かったから俺もショックだった。このサプライズで全員傷を負っちゃった。あーあ。あぁーあぁ」 「重ね重ね、大変申し訳ございませんでした」  さて、しかし俺達はちんけなサプライズで我が家の空気を殺したかったわけでも、毎度浅慮故の失敗を犯すアホの後頭部を眺めていたいわけでもない。橋本の誕生日を祝いに集まったのだ。 「しょうがねぇな。今日、お土産に俺の好きな唐揚げを買ってきてくれたから許してあげる。あ、橋本。ワインを折半で買おうって言い出したのは綿貫だから。俺は乗っかっただけ」 「そうなんだ。いい加減飲み始めたいし、ワインに免じて水に流すか。ワインだけに」 「かかってねぇよ。な、綿貫。顔上げろ。飲もうぜ」  二人揃って謝罪男の肩を叩く。ありがとう、と抱き着いてきた。やれやれ。 「じゃあ、もう一つだけサプライズを」  だが耳元で不吉な言葉が聞こえた。やめろ、と咄嗟に遮る。 「もう余計なことはするな」 「頼むから俺の誕生日パーティーをこれ以上ぶち壊さないでくれ」  必死で止める。綿貫は俺達から離れた。先程までとは打って変わって穏やかな笑みを浮かべている。 「俺、来月から一年間、スペインへ勤務することになった」 「いや騙されるかアホ」  一ヶ月後。俺達は空港にいた。 「嘘であって欲しかった」 「俺の誕生日会がお前のお別れ会になった。あの場でぶち込むサプライズじゃない」 「何でスペイン? お前の会社、印刷屋じゃかったっけ」 「いよいよ三十路に突入するからパーティーやろうぜってコンセプトをスペインで薙ぎ払うなよ」  口々に言葉をぶつける。向こう一年分、投げつけておかなければ気が済まない。 「まあ今は連絡なんていくらでもとれるし、そんなに寂しくないよな」  綿貫が鼻を啜った。一番の寂しがり屋なのに、強がりやがって。いい大人が鼻声になっている。 「綿貫、帰ってきたらまたパーティーをやろう。田中の家で」 「たまにはお前らの家でもいいんだぞ」  腹立たしい、俺達も鼻声だ。三十路のおじさん三人が別れを惜しんで涙するって、暑苦しくて呆れてしまう。仲、良すぎだろ。 「その時は、サプライズを入れてくれる?」 「お前がいないから入れない」 「そっか。田中はサプライズが好きじゃないもんな」 「わかっていたなら何であの日はやっちゃったんだよ」  放送が入った。綿貫の乗る飛行機についての案内。お別れの時間だ。なに、たかが一年すぐに経つ。俺に、俺達に出来るのは親友の無事を祈ることだけ。 「じゃあ、行ってくる」  そう言い残して大股で歩く綿貫の背に手を振り続けた。最後に一度振り返り、手を振って、愛すべきアホはゲートの向こうへ進んだ。やがて姿が見えなくなる。 「さて、一年あればどんなサプライズを仕掛けられるかな」 「時間はたっぷりある。サプライズは無いと信じきったスペイン帰りのあいつに、ド派手なやつを見舞ってやろうぜ」
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