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1.深海逸彦
警視庁には、テレビでもお馴染みの花形部署とも言える捜査一課が置かれている。一課長はノンキャリアの叩き上げと決まっており、現在も52歳になろうかという一課畑で警察人生を積み上げてきた人物がその職掌にある。
大卒ノンキャリ31歳。立てば学生座れば坊ちゃん、歩く姿は刑事貴族と揶揄されて久しい深海逸彦は、第4強行犯捜査・殺人捜査第7係に属す刑事であり、職階は警部補である。
強行犯捜査は7人の管理官の元、それぞれ細かく係に分かれており、第4に関しては、福島奈々美管理官の元、第5係から第7係までが属していた。
7係ならば凡そ出番は少なかろうと思っていたが、決してそんなことはなく、働き方改革を一刀両断する勢いで現場を駈けずり回されている。
おかげで、彼女の荒巻多岐絵と会うこともままならない日々であった。
野暮ったいよれよれのスーツを着て所轄の帳場から引き上げてきた他の係の刑事たちを尻目に、逸彦は銀座で仕立てたスーツにカシミアの黒いロングコートを羽織り、6階から降りるべくエレベーターを待っていた。
「深海君、デート? 」
そこへ、第4強行犯捜査の管理官である福島奈々美が、制服姿で声をかけてきた。逸彦より幾分年上だが、準キャリアで警視の職階にある。
「会議ですか」
「そうよ。旧石器時代の脳みそのおじさま達にセクハラ言われまくって微笑みを絶やさずに今扱っている事件の概要を報告するの」
「わぁ、楽しそう」
と、微塵も笑わずにそう答え、逸彦は階の表示を見上げた。遅い、実に遅い。
「いつも髪を綺麗にしてるわね。ふわふわとした猫っ毛さんが、庁内の女子に人気なんですって。警視庁管区抱かれたい男5年連続2位だもんね」
「はぁ」
「まぁ、5年連続1位の霧生久紀は別格ね。ワイルドだし、肉食の警察女子にキャッチーなことこの上ないわ」
その名を聞くと逸彦は舌打ちをせずにはおれない。何しろ、霧生久紀は高校の同級生にして、入庁同期なのである。
「あ、私はあなたのような文学青年タイプの方が好きよ。その割に、凶悪犯の裏事情に1ミリも絆されないクールさも持ち合わせているし」
「管理官のような美人にそう言って頂けて光栄です」
お愛想にも口元を解きもせず、逸彦は漸く到着したエレベーターに悠々と乗った。コートの裾を翻すようにしてターンをすると、猛烈に閉ボタンを連打しつつ頭を下げた。
「深海逸彦、ホント食えないやつ」
ヒールをカツンと鳴らし、福島奈々美はそう呟いた。
深海逸彦はあの外見に関わらず、先日も渋谷宇田川署管内で起きた強盗殺人事件を即日で解決したばかりでなく、報告書類なども瞬速で提出してみせた。いつもだ。他の署員が捜査で歩き疲れて根を上げていても、逸彦は顔色ひとつ変えずに書類を爆速で仕上げるのだ。そして、涼しい顔で定時で帰ろうとするのだから恐ろしい。だからこそ、歩く姿は余裕のある刑事貴族なのだ。
元々逸彦は所轄志望だった。それが何の因果か警視庁の捜査一課に配属されてしまい、すっかり生活が乱れてしまった。都下の最果てに帳場が立った時など、まるで島流しのように数日帰宅することができず、気が狂いそうだった。誰が言ったのだ、空気の綺麗なところで静かな余生、など。バーもカフェもない場所では暮らせない、そんな愚痴を年上の恋人は楽しそうに最後まで聞いてくれたものだった。
「逸ちゃん」
銀座の裏路地にあるいつものバー『SEGRETO』に行くと、既に多岐絵が待っていた。
「何だ、先に飲んでいればよかったのに」
「私も今来たとこよ」
水のグラスがそんなに汗をかいているのにか? と口にしそうになって逸彦はグッと飲み込んだ。これを言ったら今晩が台無しになるではないか、と。
カウンターに隣り合わせに座ると、マスターが心得たようにいつものスコッチを出した。
「マスター、モテるでしょ」
多岐絵が探るように言うと、マスターはいえいえと手を振った。そんな姿は逸彦と同世代に見えなくもないが、本人によれば40代半ばなのだと言う。
「そうそう、マスターにもポスター貼ってもらったんだけど、私の大学生時代の友人が横浜でコンサートするの。逸ちゃんにも来て欲しいけど、無理よね」
日付は、丁度非番の日になっていた。翌日直行すれば、泊まりも、いけるか……などと高速回転であれこれ考えを巡らせ、逸彦はスマホのカレンダーに『多岐絵』と書き込んだ。すると、覗き込んでいた多岐絵が声をあげた。
「やだ、違うわよ、歌うのは佐紀よ、佐紀」
「わかってるよ。でも俺にとっては、あくまで多岐絵との予定だから」
「……そっか」
可愛らしく照れてはいるが、逸彦よりは2歳年上であり、音大出のピアニストとして腕一本で食べている逞しき女性でもある。
この都会的なボブヘアをさらりと揺らして微笑むと、逸彦がついキスをしたくなるような可愛い笑窪が現れる。抱き寄せるべく手を回す腰はあくまで細いのだが、肩周りには『伴奏ピアニスト』としての矜持を思わせる筋肉に覆われており、男に寄りかかる生き方を選びそうにない猫目がキラリと光る。
多岐絵と知り合ったその日から、こうして共に過ごす時間が、逸彦の生きる源となったのであった。
刑事の習い性で、朝の6時にはもう意識が目覚めていた。だが起きるのがもどかしく、寒さに蹲ってみて初めて、いつの間にか多岐絵がいないことに気づき、逸彦は飛び起きた。
「あれ……」
勝どきのマンション。リバーサイドと言えば聞こえはいいが、要は都会の澱みきった川の側にあるマンションである。タワマンとまではいかないがそこそこ高層で、そこそこ広く、そこそこ高い。亡くなった両親の遺産を惜しげなく注ぎ込んで買ったマンションだが、一人で暮らすには味気がなかった。
持て余しているパソコン部屋、衣裳部屋。特に置くものもなくて、無理やり置いているくらいだ。多岐絵がグランド・ピアノを担いで越してきてくれれば一気に埋まるのだが、どうも彼女にまだその気はない。無理強いする程野暮ではないと言い聞かせて幾星霜。やはり、一度話してみるかとも、多岐絵の残像が残る寒い朝を迎えるたびに思う。
ダイニングテーブルには、朝食のハムエッグとサラダが置かれていた。
『遅刻しないでね。埼玉で10時から合唱団の伴奏なので、もう出ます』
フリーのピアニストなんて、そんなに儲かるものではない。多岐絵は逸彦の腕の中でよくそんな溜息をつく。彼女は大学を出てからずっと一人暮らしで、週三日の音楽教室の講師としての収入をベースに、今は7つだか8つだかの合唱団の伴奏を引き受けている。初めはピンチヒッターとして依頼され、その時に正伴奏者を完全にノックアウトするくらいの勢いで仕事を完璧にしてのけ、その座を奪ってきたのだとか。弾くだけでなく、歌や肉体構造などにも詳しく、雑学も相当なものだ。これはもう、ピアニストという名の職人でしかない。大体が後ろ盾もなく、学生時代から先輩達の演奏会を手伝ったりと、鞄持ちのような事をして名前を売り、その引き上げによって仕事を開拓するなど、組織にどっぷり浸かる逸彦には想像もつかない。やる気、元気、根気……どれも逸彦が苦手なものばかりだ。
「プロだな、多岐絵は」
そう囁くと、決まって多岐絵は布団を目深に被ってしまうのだ。仕事の時は誰より逞しい顔をして堂々と振る舞うくせに、逸彦の前では交際慣れしていない小娘の様な無邪気な顔を見せる。可愛いのだ、年上なのだが。
しかしそんな、彼女曰く『ヤクザな浮草稼業』にも終止符が打たれる。ここにきて幼児教育科の大学のピアノ講師の話が決まり、晴れて大学の先生になれるのだそうだ。
普通のサラリーマン家庭に育った多岐絵だが、生き方は逸彦などより遥かに逞しい。逞しいが、やはりきちんと育った躾の良さは隠しきれない。そして何より多岐絵は、渇望がない。自分に対して厳しいだけで、伴奏者の座とて手段を選ばぬほど渇望したわけではない。誠心誠意努めて、チャンスをものにしたに過ぎないのだ。
この国1番の安定職にある逸彦は、渇望感が心の底に眠っているのをいつも感じていながら気付かぬふりをしていると言うのに。
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