4.闇

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4.闇

 新宿二丁目、仲通りから一方通行を四谷方面に折れた狭い路地に、スナックの空き店舗があった。棟割長屋の様に通りに沿って続くこの飲屋街の殆どが、空いていた。やっているのは、常連客のついた隠れ家的なバーや、昭和の昔から続いているスナックだけである。  その空き店舗のうちの一つに、その夜、突如として明かりが灯った。夜半を過ぎると続々と若者が吸い込まれていく。  安普請の長屋とは言え、騒音が聞こえてくるでもなく、怪しい祝詞が聞こえてくるわけでもない。 触れてはいけないタブーが商売の魅力ともなる街だけに、周囲の者は覗くに覗けず、聞くに聞けず、ただ息を殺して事の行方を見守る以外になかった。  ミルクティー色の髪を結い上げ、80代には見えないつるりとした白い顔を歪ませ、カウンターの中に立つママがタバコの煙を吐き出した。 「ここんとこ、続いてるのよね。昨日は『漁火(いさりび)』の跡で、一昨日は新宿御苑前の『サンガム』っていうカレー屋が潰れた後の空き店舗。どっちもさ、大音量で音楽がかかるわけでもなく、変なお祈りが聞こえるわけでもなくて、気味悪いの。まぁ、ここんとこの不景気でさ、テナントの出入りが激しいのよ、ここいらは。先月オープンしたかと思えば明日には潰れる、なんて珍しくないの」  四谷署の生活安全課課長・尾道陽子(おのみちようこ)と少年係・係長である久紀は、連れ立って新宿二丁目仲通りの『深海魚(しんかいぎょ)』という喫茶店を訪れていた。  酒焼けした(しゃが)れ声でペラペラと捲し立てるのは、この街の生き字引とも守護神とも崇められている園子(そのこ)ママである。  陽が高いうちに訪れると機嫌が悪いことが多いのだが、相手が過去に二丁目の用心棒と謳われた尾道陽子と知るや、上機嫌で店に通してくれたのだった。 「出てきた連中の風体、わかる? 」  陽子の質問に、園子ママは久紀にタバコの煙を浴びせる様に吐き出して、うんざりした顔をした。 「子供よ。ほんのガキ。男の子なら食べちゃおうかしらなんて気にもなるけどさァ、女の子もいるのよ。でさ、ぼーっとした顔で出てくるわけ」 「連中は巧妙なのよ。こっちも網張ってパトロールしてるのにさ、まんまと外されるわけ。ね、久紀」  陽子は久紀を呼び捨てにし、その長い腕にうっとりと両手を絡ませた。 「ちょっと陽子、なに息子に色目使ってんのさ」 「失礼ね、どう見たって彼氏じゃん」 「よく言うわ、この子くらい産んでておかしくないでしょーが。しっしっ、お離しな、アタシのなんだから。久紀も大変ねぇ、ババァのお守りじゃ」 「いえいえ、お二人とも若々しくて素敵ですよ」  やだぁ、と妙齢の女性二人の黄色い声にも動じない、鉄のハートを持つ霧生久紀であった。  四谷署の生活安全課上げて新宿一帯の空きビル・空きテナントに網を張り、連日若手捜査員が家出少女を装い内偵を試みたが、空振りが続いていた。  空振りが続いて、もうこれ以上は署員に無理をさせられないと判断しようとしたその日、漸く内偵が功を奏し、尻尾を掴むことができた。  逸彦が既にマークしていた文慧学園の普通科の生徒達の中から、数人が自宅に戻らず、新宿駅のトイレで私服に着替えた。特に目立つ様な服ではないが、捜査員達はその覇気のない目に違和感を覚えていた。  慎重に尾行をし、彼らが新宿五丁目の廃ビルに入っていくのを確認した。  逸彦は既に、四谷署の内偵要員である19歳の女性捜査員に、深海班の海老沢に学生らしい格好をさせて護衛させ、中へと入れていた。 「エビの奴、上手いことやってるな。20……25人か。了解」  トントン、とマイクからノック音がする。逸彦の「了解」という声がちゃんと骨伝導イヤホンから届いているという合図だ。  潜入した二人には、ピアスとイヤリングにそれぞれ加工した骨伝導イヤホンをつけてある。こちらからの指示も、電波さえ安定していれば届く。 「しかし、飲み物も何にも出さず、ヤクだけやるんですかね、主任」 「金の受け渡しも今のところないな。いや、電子決済か」 「なるほど、それは巧妙だ。現金でないと取引現場を押さえにくいですね」  彼らが隠し持っている小型カメラとマイクの情報を、現場の並びにあるビジネスホテルのロビーにパソコンを広げ、捜査員で車座になって覗き込んでいた。と、そこへ長身の男が自動ドアから入ってきた。  ピンストライプの紺地のスーツに、ボタンダウンのシャツを第二ボタンまで寛げ、見せびらかしている鎖骨のあたりでは金のネックレスがキラキラと輝いている。腕には金色のロレックス、あれはデイデイトか。撫で付けた髪からほつれる前髪の下は、金縁のレイバンのサングラス。そして火のついていないタバコを咥えていた。  どこにも弛みや隙のない体格は、直ぐにでも拳を繰り出すであろう敏捷さを十分に感じさせる。  深海班の稲田と菅、そして四谷署の強行犯係の若手が、ザッと殺気立った。 「よぉ」  わざと下卑たニヤケ顔を作ってサングラスをズリ下げた男の顔は、役者の様に整っていた。何だぁ、と捜査員達が一斉に弛緩してソファに背を預けた。 「ガラ悪っ」 「当たり前ェだろ。ヤクザに見えなきゃしょうがねぇんだから」  タバコをポケットに捩じ込んだのは、四谷署の泣く子も黙る少年係の係長・霧生久紀であった。 「逸彦、おたくの出世魚コンビ、借りるぞ」 「はい? 」 「カシラには舎弟がついてなきゃ。はいはい、瞳ちゃーん」  了解を得るまでもないとばかりに、瞳ちゃんと呼ばれた私服の女性捜査員が、黒い巨大なバックを手に現れるなり、 「失礼致します」  と、稲田と菅を連れ去っていった。代わりに、久紀の部下である少年係の署員が、パソコンの前に座った。 「間違いありませんね、文慧学園でマークした子達だけでなく、先日仲通りで職質した子達もいます。結構年上の子達もいますね」 「大学生か」 「下手すりゃリーマンもいるんじゃないでしょうか。あと、この辺りのキャバ嬢もいますね」  逸彦は目を見開いた。 「そんなとこまで覚えてるのか」 「いや、過去に薬物で検挙したことのある子達だけですよ」  感心した様に逸彦は頷いた。 「ドロッドロに嵌ってるんだな、こいつら」 「……抜けられないんだよ、一度味わうと。逸彦、俺たちで一発こいつらを揺さぶって脅すだけ脅すから、逃げ始めたところを片端から取っ捕まえてくれ。ドラッグ流している主犯なら、俺達の姿見たら我先にと逃げ出す筈だ」 「何でおまえに従わなきゃならないんだよ」 「餅は餅屋。その代わり、後は煮るなり焼くなり好きにして。高校生以外の身柄(ガラ)はそっちに全部任せる」 「絶対だな」 「武士に二言はない」 「ヤクザの間違いだろ」  見れば見るほど、キャバ嬢がぞろぞろ後をついていきそうな、色気ムンムンのヤクザである。御丁寧にガムまで口に放り込んで。  即席でヤクザの風体に仕上がったイナダとカンパチの出世魚コンビは、逸彦が吹き出しそうなほど滑稽だった。久紀の出来栄えが良いだけに見劣りするというか、つくづく殺人犯係にはソフトすぎる面貌なのだろう。  それぞれにデザインの違う、骨伝導タイプのイヤホンでもあるイヤーカフをつけ、架空の組の代紋を象ったマイク仕込みのバッチをつけ、久紀は簡単に出世魚コンビと打ち合わせをした。 「始まりました、スマホの画面を確認するのと引き換えに、錠剤入りのパケを受け取っています」 「エビ、スマホを探すふりをして少し下がれ。気付かれる」  指示通り、エビがバタバタと服を叩く素振りをしながら壁際に下がる。と、一緒に下がった女性捜査員がかけているメガネに仕込んだカメラが、隣で錠剤を袋から取り出して口に入れた男子学生の姿を捉えた。その顔が、捜査員に向けられた。 「おい、山南くん、ロックオンされたぞ、離れろ」  胡乱な目で女性捜査員を捉えた学生の手が、メガネに伸びてきた。 「まずい……」  逸彦が腰を浮かしかけた時だった。  乱暴にドアを蹴破り、ヤクザな風体の3人組が乱入した。 「オルァ、誰に断って商売しとんのじゃ、クソガキャァ! 」  迫真の啖呵を切って、久紀が練り歩きながら、何気に捜査員に絡もうとした男子学生の襟首を掴んで投げ飛ばした。 「裏口C、D班、出るぞ。一人も逃すな」  逸彦は腰のベレッタ 92FSを手で確認し、指示を出しながらホテルの自動ドアから飛び出した。 「北A、南B班、通りの出口を封鎖。本隊、入口を囲め」  四谷署の制服組の応援員が、使い慣れない盾を持って逃げ道を塞ぎ、ふらふらと出てきた学生達を次々に確保した。まだ錠剤を口にしていない者達は大変な暴れ様であるが、大抵は足元が覚束ず、盾を使うまでもなく検挙されていったのであった。  裏口では、真っ先に出てきた黒ずくめの長身の男と仲間と思しき若い男が、待ち受けていた捜査員と攻防を繰り広げていた。二人ともナイフを持ち、振り回している。  捜査員達は一斉に警棒を抜いて囲みを狭めていった。 「靖国通り方面からワンボックス車! 」  と、そこへインカム越しに報告があり、次の瞬間、猛スピードで駆けてきた黒いワンボックス車が捜査員を数人跳ね飛ばした。後部スライドドアが開けられ、ナイフで抵抗していた二人組がもたつきながら乗り込もうとすると、そこへ久紀が飛び出してきて若い方の襟首を加減なしに掴み、引き倒した。  一人だけを拾い上げ、ワンボックス車はタイヤから煙を吐き出す様にして急発進するが、その鼻先数十メートルに、通りの反対から走りこんできた逸彦が拳銃を構えて立ち塞がった。 「止まれ! 」  警告に空へ一発、そしてタイヤに一発、逸彦は迷わず発砲した。  ワンボックス車はスリップをして電柱に激突した。運転手と後部座席に乗り込んだ黒ずくめの長身の男と、仲間と思しき男がスライドドアから飛び出してくるが、捜査員達に一斉に飛びかかられ、敢え無く御用となった。 「バカ、無茶すんな」  駆け寄った久紀に、アチっ! と拳銃を預ける様にして、逸彦が指にふうふうと息をかけた。 「ホント嫌いだよ、拳銃って」 「ぶっ放しといて今更言うなよ……流石にSAKURAに比べると音でけぇな。おまえんとこは皆オートマか」 「殺人担当に装弾5発はキツイよ。だから全員オートマチックで訓練させて、大捕物の時は許可もらって15発フル装弾……ああっ、くそっ、指痛っ」 「おやおや……はいどうぞ、お坊っちゃま」  少し熱を冷ましてやって、久紀は逸彦の腰のホルターに差し込んでやった。 「今日は携帯してたの、おまえだけ? 」 「潜入するのに拳銃はかえってヤバイし、未成年が多い可能性があるのに下手にビビって発砲されても困るからな。おまえは確かグロックだよな、あれ、持ってないの? 」 「俺、いたいけな少年係よ。自前のグロックならついてるけど、見る? 」  サングラスをズリ下げて笑う久紀の腹に軽く拳を見舞い、逸彦も笑った。 「何がいたいけな少年係だ。どこからどう見てもマル暴だろ」  聞こえたかどうか、久紀はとうに背を向けて、怪我をした捜査員達の救助に駆け出していた。    
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