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8.苦味
重い体を引きずって、いつもの銀座のバー『SEGRETO』に辿り着いた。入り口の敷居にも蹴つまずく体たらくで、逸彦はカウンターのスツールにしがみついた。
「お疲れ様でした」
マスターはそう言って、おしぼりを手渡した。
「終わられたのですか」
「一応、解決しました」
「流石、いつもながらお早いお仕事ですね」
はぁ、と大きく息を吐き、逸彦はコートを脱いで隣のスツールに置いた。すかさずマスターがカウンターから出てきてコートを預かり、入り口のコート掛けに吊るした。
「お腹は空いてらっしゃいませんか」
「空いた……朝から取り調べと調書のまとめと報告書の山で……今回の事件は本当に、やるせないんですよ……」
マスターは頷き、ひとまずお野菜を、とトマトとモッツァレラのカプレーゼを出してくれた。
トマトの酸味で頭を覚醒させていると、いつものスコッチが目の前に置かれた。芳香に慰められるように、逸彦はグラスを両手で包み込んだ。
ふうーっと腹の底から毒気を追い出すように息をついた時、ドアが開いて長身の男が疲れ果てた足取りで入ってきた。
「やっぱりここか。福島管理官に仁義切ってきたぞ」
スーツ姿の久紀は苦々しい顔でマフラーを剥ぎ取り、コート掛けの逸彦のコートにさらりと掛けた。
「霧生さん、コートも着ずに寒かったでしょう」
「ジャケットの中、薄手のダウン着てるんすよ。てか、今度の事件があんまりやるせなくて、心が寒いっす」
すっかりカウンターに突っ伏してしまっている逸彦の隣に座り、久紀はその友の背中に大きな手を置いた。
「お疲れ」
「お疲れ……由利香と想太の家族に、全容を話してくれたのはおまえだってな」
「少年係の係長様だからな」
「あのババァに任せろよ。何のための百戦錬磨なんだよ」
「いてくれたよ、一緒に……由利香の親に、亡くなった時の事は伏せようかとも思ったが、何しろ死後硬直であの体勢のまま本人確認してもらっているからな。ありのままを話した。別々の部屋に待ってもらって順に話したんだが、終わった途端、想太の父親は廊下に駆け出て、由利香の家族の前で土下座したよ。泣きながら、な。薬を飲まされたとはいえ、元々の原因は、秋雅に付け込まれた息子の弱さと、息子を見ていなかった親の自分にある、と」
「そうなんだ、堪らないな……悪かった、辛いことを任せて」
「いや、これが仕事だ。下の生垣の根元から由利香のコートが見つかったのが、幸いだった。常習なんかじゃ無かった事がハッキリしたしな」
マスターが差し出したバーボンを一気に煽り、久紀は逸彦の背に置いた手でポンポンと労った。
「ある意味、マル暴の方が相手も腹括っている分、やり易いよ」
「大丈夫か、おまえ」
「どうってこたぁねぇ。俺だぜ、久紀様だぜ、ナメンな」
「はいはい、警視庁管区抱かれたい男第一位だもんな」
「そういうことだ、第二位」
2人は同時に、苦い顔で酒を煽った。
佐藤雅文は、妻の秋枝の実家が経営する学園を義父から継いだ後、成績の悪い有名人の子息を引き受けて寄付金を募ったり、私立大学との提携を取り付けて学校のレベルアップを図ったり、先代までの緩慢な経営から攻めの経営へと舵を切り、それなりに成功を収めていた。有頂天になった彼は、数々の女性と浮名を流し、秋枝を追い詰めていった。お嬢様育ちの秋枝は鬱病を発症し、息子の秋雅に依存するようになる。息子がすげなく拒絶すると、学園の事務方や果ては配送業者まで引き入れ、息子がいようがいまいが御構い無しに情事に耽るようになった。つきまとわれたり脅されたりした時は、秋雅が金や様々な手口で口を封じ、表向きの母の体裁だけは必死に守っていたのであった。
一向に家族を顧みない父・雅文の背中に唾棄しながら、狂ったように男にしがみ付く母の後始末に明け暮れるうち、秋雅の心は益々歪んでいった。
たまたま御苑の木陰で拾った薬物を、化学の実験室で調合して遊ぶうちに、それらしい錠剤ができた。試しに、TOHOシネマズあたりを徘徊している家出少女にダイエットに効くからと飲ませてみたところ、通り掛かりの不良に面白いように絡みついていった。
通称・トー横と呼ばれるこの辺りは、家出少女や無職の未成年などの溜まり場になってしまっている。男女それぞれに無作為にお菓子だのラムネだのと嘘をついて食べさせていきながら、効果のデータを取って調合を変えたりした。
若いだけに、思慮が浅いだけに、あっという間に中毒症状を呈する連中には二度と直接は接する事なく、スマホの闇サイトを利用した。
手下には事欠かない。たまたま万引きするところを目撃して退学を仄めかした想太の他にも、ちょっとした憂さ晴らしの手伝いをさせるに十分な弱みを握る連中は沢山いた。学長の息子というだけで、保身の為にほいほい誘いに乗っかってくる連中を軽蔑し、殊更酷い扱いをしてやる事で溜飲を下げていた。
「バカなんだよ、どいつもこういつも。飲むとすぐに猿みたいにサカってさ。どこでもそう。クラブの薄暗いフロアの中で、オットセイみたいな声あげながら、ひたすらサカってんだよ。ウチのバカ親と一緒だよ」
そう言って、秋雅は高笑いをした。
「金なんてどうでもいい。闇バイトで集まった奴らに適当に握らせりゃそれでいい。人間なんてさ、所詮サルなんだよ。サル以下だね。どんなに仕立てのいい服を着ても、知識だの教養だの、身分だの立場だの、あっという間に全部かなぐり捨てて、目の前の肉体に食らいつくんだよね。浅ましいだろ。あの由利香だってさ、想太を巻き込むなとか偉そうなこと言ってきて、辞めなきゃ僕が万引きしたところが映った動画をバラ撒くとか脅してきて。金を払おうとしても応じないし、正義面して想太を引き離そうとするから、ならおまえが想太とくっつけよって、ハハ、あんなに嫌がってた癖に、想太にブチ込まれるとヒイヒイよがっちゃって、雌ザル、ほんとサル。マジでウケた……いい実験になったよ。どんなに清く正しくったって、正義振りかざしたって、醜い性欲には逆らえない。刑事さんたちもそうじゃん……そう、実験だ、母さんが壊れた理由を知るための、実験」
タブレットの中で淡々と話し続ける秋雅の様子を、逸彦は雅文にも見せたのであった。取り調べに当たっている四谷署の刑事達がお手上げとばかりに頭を抱えている様子が画面に写っている。これを送ってくれた久紀は、この部屋の端で吐き気を覚えていたという。
「これが、私の息子ですか……」
同級生を無残に殺し、それも酷い死に様で尊厳を傷つけた息子は、何の悔恨も見せてはいない。自分の蒔いた種だと、雅文は頭を抱えた。
「息子を壊したのは、私達ですね……」
「あんた達のプライバシーなんざ興味はない。ただ、秋雅が万引きをしている事を…想太のような手下を使って罪を犯させていた事を、貴方は気付いていた筈だ。その時に、体を張ってでも向き合い、息子が回り道をすることになったとしても、きちんと罪を明らかにして償う道を選ばせるべきだったんだ。いや、俺は子供がいないから分からないが……庇って目を瞑って、結局保身でしかなかったあんたの事後処理が、ひいては学園の教え子たちを世間の厳しい目の中に放り出すことになってしまったんだ」
「……亡くなった生徒たちに、何と詫びたら……」
「さあな。死ぬまで償うしかないよ。間違っても教育者でないことはあんたが一番わかっている筈だ。1人の親として、秋雅のために子を奪われた親達と、何より秋雅と、逃げずに向き合っていくんだ」
由利香と想太の死に様を思うと、酒を煽る手が止まる。
「由利香は、想太を助けようとしたんだな」
「相談出来る大人が、いなかったのか……」
「想太が退学になる事を恐れたんじゃないか。もしかしたら、由利香は想太のこと……」
「やめてくれ、逸彦。これ以上はもう耐えられねぇよ」
そこへ、聞き覚えのある賑やかな声と共に、多岐絵ともう1人が入ってきた。多岐絵よりスラリと背の高い細身の美青年は、逸彦もよく知る人物で、久紀の血の繋がらない弟・光樹であった。
「いらっしゃいませ。これはこれは、美しき聖母様がお二人ご降臨ですか」
マスターに目顔で挨拶をするも、2人はすぐに男達の姿を捉えた。
光樹は、その黒々とした睫毛に覆われた瞳で久紀の姿を捉え、一瞬、涙を溜めるようにして動きを止めた。だが、多岐絵に促されてコートを脱ぐと、すぐにアジアの美神と謳われる笑顔を作って久紀の右隣に座った。多岐絵は勿論、逸彦の左隣だ。
「光樹、なんで……京都の筈だろ」
「タッキーから電話もらって」
多岐絵と並ぶとまるで姉妹のような、いや掃き溜めに孔雀が舞い降りたようなインパクトのある美貌で、光樹は28歳ながら今やミラノコレクションにも出る程のモデルをしている。男性モデルにしては、逸彦より数センチ高いだけの身長は小さい方だが、彼の場合はジェンダーレス・モデル、なのだそうだ。
「京都での撮影は、無事に終わったか」
マスターにビールを頼み、光樹は頷いた。
「逸ちゃん、あたしミッキーから日本未発売の新作の香水もらっちゃった」
ほら、と多岐絵が個性的な瓶を見せると、逸彦は久紀の頭を飛び越えるようにして光樹に礼を言った。
「光樹、悪かったね」
「やだ全然、タッキーにはいつもお世話になっているんだし」
「ほらぁ、ミッキーって、本当にいい子よねぇ」
とわざと明るく言いながら、多岐絵はそっと逸彦の手を握った。
「大変、だったんだよね」
「うん」
「お疲れ様」
「うん」
黙って逸彦は多岐絵の肩に寄りかかった。いつもなら肩に負担をかけたら仕事に触ると怒るのだが、今日は優しく、逸彦の頭を撫でてくれた。
一方の久紀も、光樹の腰を引き寄せるようにして自分の膝の上に乗せていた。光樹の首筋に顔を埋めたまま何も言わない久紀に好きにさせたまま、光樹は生ビールを煽った。
「マスター、このマル暴と刑事貴族、回収していきますね」
光樹が一万円をカウンターに置いて多岐絵に合図すると、多岐絵も一万円をそっとカウンターに置いて、逸彦にコートを着せるべく立ち上がった。光樹の方も、いつまでも腰にしがみ付いている久紀の手を解き、優しくマフラーを巻いてやった。
「タッキー、今度また、ゆっくり飲も」
「そうね。こいつら置いて、美人会よ」
「それサイコー! ……知らせてくれて有難う」
「何言ってんの。電話した時はもう、撮影を途中ですっぽかして東京に戻ってきてた癖に……分かりやすいもんね、こいつら」
「そう、分かりやすいの。だから……あ」
無言のまま、久紀は光樹の腕をとって店の外に出て行った。
「多岐絵」
逸彦は多岐絵の腰に手を回し、歩調を揃えるようにして店を出た。
昭和通りに出たところでタクシー乗り場を探すべくキョロキョロと見渡すと、シャッターの閉じた喫茶店の屋根の下で、抱き合ってキスを交わす光樹と久紀の姿を見つけた。
兄弟だが、兄弟ではない。他人だが他人ではない。決して誰にも言えぬ愛の関係を、多岐絵と逸彦は知っている。だからこそ、2人きりの時は、それもどちらかが弱っている時は、1秒たりとその体温を離してはいられないということも、己のことのように理解できる。
秋雅は、こんな美しい情愛を何と見るだろう。胸が締め付けられる程に相手を求めてやまないこの情動を、サルの如くと笑うのだろうか。
渇望をぶつける久紀の、哀れな程に噛み付くようなキスに、光樹は体を全て同化させるかのように絡ませ、自らの想いを久紀の芯へと注ぎ込むべく喉を鳴らして応じている。
この2人の姿を笑う者がいるならば、俺が殺してやる……。
「行こう」
逸彦は多岐絵の腰を抱き、折良く止まってくれたタクシーに乗った。
「多岐絵、今日は一緒にいて欲しい」
乗った途端に、涙声でそう甘える逸彦が愛しくて、多岐絵はその肩を抱き寄せた。大きな体が重たいが、髪から香る芳香が心地よい。
「明日、私、オフだから」
「俺も、休む」
「なら……」
ずっと一緒にいようと、多岐絵は答えた。
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