揺られて歩いて午の刻

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

揺られて歩いて午の刻

 雪治が目を覚ますと、やはり自宅の寝間だった。江戸で役目を終えた後に眠ると時渡りの力が勝手に発動して現代に戻るようだ。汗をかき呼吸を乱す戦いだったのに、不思議と疲れはない。汗をかいたのが夢だったかのように全身もすっきりしている。自分の体力と回復力を超えたものを感じ、雪治は神棚に手を合わせた。  学生生活を送りながら師範もやっていた頃はほとんど休日というものが存在しなかったが、昨年大学を卒業し師範として剣術を人に教える仕事だけになると、雪治も人並みに休日を過ごすことができるようになった。早朝の鍛錬は毎日欠かせないが、それは雪治にとってはただの習慣であり、休日が減る感覚にはならない。  鍛錬と食事を終えた雪治は、シャワーを浴び髪を乾かし髭を剃ると、裸のまま服を置いている衣装部屋へ移動する。実家暮らしだが親は幼い頃に他界しており、歳の離れた姉も既に家を出て部屋の余りある日本家屋にひとり暮らしのため、裸のまま歩き回るのは日常風景だ。たまに住み着いている人ならざるものからは叱られるが。  衣装部屋に来た雪治はまず桐箪笥を開け、畳紙(たとうし)に書いた文字を見て気分の乗る着物を探す。幅が等間隔ではない縦縞の泥大島、アルファベットのAからZを全面に並べた泥大島、曜変天目茶碗に着想を得て様々な色が散りばめられた天目染めの西陣織、本来女性向けの短冊柄の加賀友禅を男物に仕立ててもらった着物、パステルカラーの米沢紬、赤地に毬と梅の咲く京友禅、バイカラーの伊勢木綿、音符の並ぶ久留米絣、お気に入りの変わり種の着物たちを眺めてみるものの、今日はどれも気が乗らない。  「うーん……たまには洋服着るか」  着物を桐箪笥に戻し、クローゼットを開けてみる。洋服はあまり持っていない雪治だが、持っている物は好みがハッキリしている。柄シャツとセットアップばかりのクローゼットを数秒眺めて頷けば、灰地に茶色で世界地図が描かれたシャツと、薄ピンクのセットアップを取り出す。  着替えを終えた雪治は肩掛けの小さい鞄に、札入れと小銭入れ、カードケース、スマホ、文庫本、ハンカチとティッシュだけ入れて持ち、茶色のタッセルの革靴を履いて家を出る。  「んー、いい天気!」  鳥の鳴き声、まだ少し涼しい風、燦々と輝く太陽。雪治の髪は日頃黒髪に見えるが、こうして陽の光に照らされると千歳茶(せんさいちゃ)色であることがよくわかる。緩い天然パーマで、長めの襟足と前髪が吹く風に時折揺れる。  歩き出した雪治の向かう先は例の神社である。この参拝は神に力を与えられた時から、休日でなくともほとんど毎日行っている。今日は昨夜の報告もあり、ゆっくり参拝を終えるとちょうど近所の中高生の登校時間だ。  雪治は優男で色男である。変わり種で派手な服装が似合うスタイルの良さに、切れ長の目、右の目尻下と唇の左下にある黒子が色気を増し、登校中の女子生徒たちから熱い視線を浴びるのに対し手を振って応える気さくさもある。もちろん男子生徒からは睨まれているが、強さの自負ゆえか、人間からの敵意は意に介さない男である。  雪治は鼻歌を歌いながらなんとなく歩き、駅の近くを通りかかると思いつきで乗車した。時を渡った先では言動に多少なりとも気をつけている上に滞在時間が短いためまるで常識人のような振る舞いだが、元来、雪治は剣以外には不真面目で気まぐれな自由人である。  目的もなく来た電車に乗り、窓の外を眺めたり本を読んだりスマホをいじったりして時間を潰し、気が向いた駅で降りては辺りをぶらついてみる。朝から開いている店は少ないが、町を眺めているだけでも雪治には面白いようだ。  歩いているうちに開いている店を見つければ入ってゆったりとした時間を過ごし、また気まぐれに店を出て歩き出す。そうしているうちに昼が近くなると、気分の乗る食事を探し始める。  「そろそろお腹空いた……何にしようかな」  天丼、牛丼、トンカツ、どれもしっくり来ないのか、雪治は首をかしげて歩き進める。すると矢印が路地裏を指す寿司屋の看板が目にとまった。  「昼の寿司、ありだね。お酒もつけて昼飲みしちゃお」  路地裏のその店の格子戸を開けると中は存外広く、木を基調とした落ち着いた雰囲気の店だった。まだ正午にはなっていないからか、客は疎らで店内は静かだ。席について店内を見渡すと壁に木の板で本日のおすすめが掲示されていた。  「本日のおすすめを全種類と、それらに合う日本酒を冷でお願いします」  「かしこまりました」  大将が寿司を握る姿をカウンター越しに見つめながら待っていると先に日本酒が用意される。とりあえずひと口、と手酌で酒を注いだお猪口を傾ければ、爽やかな発酵臭とともにほのかな甘みを感じる。全体的にはすっきりとした辛口で、寿司の良さを邪魔しなさそうだ。寿司の味に相当の自信があるのだろうと雪治の目が期待に輝く。  「上善如水ですか、いいですね。期待してます」  「はは、期待に添えるよう頑張ります」  頑張る、なんて言っているが大将はどう見ても余裕そうだ。いい店を見つけた、と雪治は上機嫌に頭を揺らす。まったく落ち着きのない大人である。  まずは汁物、とあさりの味噌汁。脂の少ない魚から始まり、ブリが握られると同時に日本酒が東洋美人に変わる。脂の乗ったブリには後味のさっぱりした辛口ということだろう。上善如水をそれこそ水のように飲んでいた雪治だが、彼はどんなに飲んでも飲まされても呑まれない酒豪である。ブリの甘みに目を細め、質がよく不快ではないがどうしても口に残る脂を東洋美人ですっきりさせて天を仰ぐ。  「組み合わせ神すぎ……」  寿司のクオリティと酒選びに満足した雪治は、昼休みの時間になり少し混んできた店を出てまた歩き出す。別の駅へ行こうと来た道を戻れば、牛丼屋もとんかつ屋も天丼屋もサラリーマンを中心に混み合っている。  人が多い時間帯の上、来る時には開いていなかった店も開店しており、午前中とは町の雰囲気がかなり変わった。雪治はこの変化も好きなようで、開店した店や町行く人を眺めながら機嫌よく駅に向かった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!