怠惰について

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

怠惰について

キリスト教の概念に七つの大罪というものがある。厳密に言えば、七つの「死に至る」罪というのが正しいらしい。 その中の一つに怠惰がある。 なるほど。僕は既に大きな罪を背負って生きている訳だ。 それはそうだろう。少なくとも今の僕は、人間として正しい姿とは口が裂けても言えない。 下らない他責思考も、極端な自己否定も、意味の無い現実逃避も、怠惰が原因なのだからこれはまさしく「死に至る」罪だ。 けれど、これはそんなに大層なものなのだろうか。 怠けたいだなんて、誰しもが持っている感情だろう。 学校の宿題を好んでやっていた子どもがいるとは思えない。大人になったって、毎朝仕事に行くのが楽しみで仕方ないだなんて、まあ有り得ないだろう。 それが普通だ。怠惰であることは普通なんだと思う。 でも僕は普通じゃない。明らかに他人よりも劣っている。 この謎に答えるのはとても簡単だ。 皆努力していて、僕は努力していない。 ただそれだけだ。 生きるためには努力が必要だ。 怠惰に身を任せず、前を向き、困難に立ち向かい続けなければならない。 努力をし続ければ人はより良い存在になれる。 より良い存在になろうとするのが人間として普通なのだろう。 少しでも努力を諦めてしまえば、人はそこで終わってしまう。 人は走り続けなければならない。死ぬ時まで走り続けて、そこで初めて、良い人生だったと笑えるのだろう。 僕はどこかで諦めてしまった。 普通であろうとする事に、何故か突然疲れてしまった。 少し怠けてしまいたかっただけなんだろう。 だけど、それは人間にとって死を意味する。 努力をしない人間に生きる価値はない。 社会からの圧でそう考えるのではない。自分自身が、生きる価値を見出せなくなるのだ。 努力は苦痛だと感じる。終わりの無い絶望なのだと感じる。 生きることは苦痛なのだろうか。だからと言って死ぬことが救いだとは微塵も思わない。 それどころか、僕は死ぬのがとても怖い。 自分の存在が消えることに恐怖は感じない。 もともと存在していないようなものだ。 怖いのは、その瞬間、恐ろしい後悔に苛まれることだ。 努力をしなかったこと。怠惰に過ごしてしまったこと。人間として生きなかったこと。 絶望とはその瞬間のためにある言葉なのかもしれない。僕は絶望するのが本当に怖い。 ならば今からでも遅くない。努力をすればいいのだ。 本当に簡単なことだ。そうすれば、後悔のまま死ぬことはないだろう。 少し普通でなくても努力をして、人間のあるべき姿に近づいて、人間として死ぬ。 これは苦痛ではなく喜びだろう。 たった今、重い腰を上げて外に出て、何かすればいい。別に今の時代外に出なくたって、部屋の中で出来ることだって沢山ある。 その先にはきっと希望があるだろう。 怠惰とは、そうではないのだ。 苦痛に怯え、人生に怯え、後悔に怯え、それでもなお、体が動かない。 どうすればこの虚無感から抜け出せるのか、分かっていながらも、体が動かない。 恐怖から目を逸らし、明日の恐怖をため続ける。 誰かが僕をこんな風にしたのではない。自分自身が望んでこうしているのだろう。 だからこそ怠惰は病ではない。「死に至る」罪なのだ。 いつの日か、絶望という罰が下される。 ……考えたくない。今日も怠惰に逃げることにする。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!