86人が本棚に入れています
本棚に追加
鏡を見て、ハッとした。
前髪の長さは目の下にとどまっている。
だけど、
「アシンメトリーにしてみました。」
明らかに来た時と違う自分を前のめりになってじっくり見てしまった。
コイツが俺の髪をよく触っていた理由がなんとなくわかった。
たぶん。今日、こんな風にカットするためだったんだ。
「もう少し、全体的に空いていいですか?」
肩をトントンとされて背もたれに寄りかかった。
鏡を見ると出口が下を向いて笑うのを我慢している。笑いたいなら笑えよ。いつもみたいに。
俺が俺の顔に興味を持つのは初めてだった。
「だいぶスッキリしましたよ。」
そう言ってドライヤーでガウンについた切った髪を飛ばす。さらに頭にもドライヤーの風を当てたが
「ごめん、軽くシャンプーさせて。」
ドライヤーを切ってしまった。
「え?」
思わず振り返った。
「切った髪が取りきれないんだよね。」
「……帰るだけなんで気になりません。」
「僕が気になります。」
コイツは押しが強い。
「…わかりました。」
椅子が回って、シャンプー台に促された。
別に髪流すだけだし。まだ、店も営業中だし、連れ帰られることも、キスされることもないだろう。
「どうぞ。」
促されてシャンプー台に座った。本日2度目のシャンプーである。シャンプー台がフルフラットになると体が睡眠モードに入り始めるのを必死に阻止する。
「眠そうですね。」
出口の声は楽しそうだった。俺を眠らせようとしているのか。
「そんなことないです。」
「ふふ。」
シャンプーされた。ただ洗うだけじゃなくて頭皮を出口の指がほぐし始める。圧がちょうどいい。
「仕事、大変ですか。」
「え。」
その質問、何?あなたのせいで俺は熱を出して寝込みましたが。
「頭皮、相変わらず硬いから。ストレスなのかなって思っ」
「そんなことないです。大丈夫です。」
食い気味で言葉を被せた。
「ゆか…立木さんは、仕事好きなんですね。」
今、なぜ言い直したんだろう。あ、仕事だからか。仕事とプライベート使い分けてんのか。そういうことか。
「仕事は好きです。」
「よく、人間関係とか悩む人いますけど」
たぶん、小田さんと俺のこと気にしてくれてる。
「それも、大丈夫です。」
「それは良かったですね。」
襟足付近を丁寧に揉んでくれる。
「楽しくてがんばりすぎてる時って気持ちはハイだから、体の疲れに気付けないことあるんです。だから…自分の体大切にしてください。」
出口自身、体を壊したことがあるんだろうか。ずっと忙しい感じするしな。なのに、ロケの時間すげえ取ってくれて。ロケハンまで一緒に行ってくれたし、結局あの日、ご飯食べて帰ってきて、福島駅に着いたのは午後10時だったっけ。
「あ、一般論ですよ。僕みたいにどんなに仕事しても元気な人もいるので。楽しくて時間が過ぎていってしまうので。」
シャワーでシャンプーを流して、トリートメントを髪に馴染ませた。これが終わったら髪を乾かして施術終了になる。
俺はもう我慢の限界だ。この変なモヤモヤした気持ちでアパートに帰りたくない。コイツの距離感に腹が立つ。
「…仕事は楽しまないと。」
「ん?」
「あんたが俺に言ってくれたんじゃん。」
「…うん。」
出口の声は少し戸惑って聞こえた。
「全部、“楽しい”に変換できるあんたはすげえよ。」
俺が、そういつも通りに話すと出口がふって笑う。
「ふふ。せっかく作ってたのに。初対面の空気。」
「やっぱ似合わねーよ。こんな距離感。なんで距離とってんだよ?」
出口が俺の首の下にホットタオルを置いた。
「うん。お店のみんなは僕と縁くんの距離が近いこと知らないから。」
「まあ、近くなったつもりはねーけど。」
「いきなり親しく話してたらやっぱ変かなって。」
「そ。」
「うん。」
毛先をいじられる。
「…それとさ。」
最初のコメントを投稿しよう!