親友に騙された!

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 悶々とした時間を過ごしていた宏子に、ある日、千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスが訪れた。いつものように電車に乗り込むと、いつものようにロングシートの片隅に〔彼〕が腰を下ろしていたのだが、そのすぐ隣にひとり分には多少狭いながら、微妙なアキができていたのだ。普段、ここには、初老の紳士が、ピシッとしたスーツ姿で座っている。ところが、この日に限ってその男性の姿が見当たらない。ここぞとばかりに宏子が動く。珍しく軽快な動きだ。思いきって、空いているその僅かなスペースを確保した。狭めの空間に座り込んだこともあり、〔彼〕との距離は、いやおうなしに近い。耳を済ませば、電車の走行音の合間に、〔彼〕の息遣いが聞き取れるほどだ。これまでに経験したことのないような心臓の鼓動を感じる。しかし、当然ながら面識のない相手だ。いきなり話しかけようものなら、ただの不審者になってしまう。  とはいえ、まずは、自分の存在に気が付いてもらわなければ、何も始まらない。〔彼〕の下車する駅は昨日すでにチェックしてある。宏子の目的地のひとつ前であり、その乗車時間はあと15分程だ。時間がない。  手元のスマートフォンを床に落としてみようか。なんとも古典的なやり方である。しかし、他の人に拾われてしまったら万事休すだ。首尾良く、〔彼〕が手を伸ばしてくれたとしても、“ありがとうございます”で終わってしまい、それ以上の展開は見込めそうにない。そもそも、その程度の些細なことが〔彼〕の記憶に残るとも思えない。  時間だけが過ぎるなか、宏子は、昨夜テレビで見ていたプロレス中継を思い出し、とっさにひらめいた。この先、電車が大きく揺れる魔の急カーブがある。その揺れに乗じて、バランスを崩したふりをして、〔彼〕の脇腹に肘鉄を喰らわしてみよう。かなり乱暴だが、話しかけるきっかけは作れる、さらにその後、何度となく、“ごめんなさい、大丈夫ですか?”と繰り返しても不自然ではない。  そうこうしていると、列車は例の急カーブに差しかかった。“いまだ!” 揺れを感じた瞬間、よろめきながら〔彼〕のほうに体を預けると、その右ひじを〔彼〕のボディにぶちこんだ。  「うっ!」  言葉にならないようなうめき声とともに、〔彼〕が蹲った。どうやら力加減を誤り、想定よりもはるかにハードな一撃が入ってしまったようだ。当初の計画では、苦笑いも見せながら“ホントにごめんなさい。大丈夫ですか?”と何度も声を掛け、気を引くつもりでいた。しかし、いまや、それどころではない。  「ごめんなさい、大丈夫ですか?」  発した言葉は予定通りだが、心境はまったく違う。血相を変え、〔彼〕の様子を伺う。やがて、痛みをこらえながら体を起こした〔彼〕は、平謝りする宏子に気付き、そして何が起こったのかも理解した。  「心配しなくても大丈夫ですよ。」  額にはうっすらと脂汗も浮かんでいるが、これが宏子の策略などと知る由もない〔彼〕は、余計な気は使わせまいと気丈に声を掛けてきた。  やがて〔彼〕は、何事もなかったように、いつもの駅で下車していった。宏子は不安にかられた。実は、怪我とかしていないだろうか。明日、普通に来るだろうか。そもそも、自分に悪い印象を残していないだろうか。さまざまな想いが宏子の頭から浮かんでは消えていった。
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