大通りまでの恋人

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「久しぶり」と彼女は言った。  軽く髪を横に流しながら、僕の横に彼女は座る。  ウイスキーの様な色の照明は、彼女の耳に垂れる大振りのピアスを輝かせていた。彼女は一呼吸を置いて、申し訳なさそうな顔をして僕に尋ねた。 「驚いた? 待たせてごめんね」 「先に始めてたから全然大丈夫だよ。何飲む?」 「どうしよっかな。何飲んでるの?」 「ランブルスコ。甘いよ」 「じゃ、私も同じので」  この店は初めて来たが雰囲気がいい。  色味の薄い木製のカウンターテーブルが程よくバーらしくなく、落ち着かせてくれる。バーテンダーは手早く彼女のワインを用意してくれた。 「乾杯」  チン、と小気味よい音が鳴る。  半年前まで『彼』だった彼女の快気祝いだ。  ツヤのある髪、ナチュラルだけど発色の良い口紅、スモーキーブラウンのアイシャドウ。  言葉は変になるが、女より女らしい見た目だ。ワイングラスが良く似合っている。 「綺麗になったね。どう、調子は?」 「ありがとう、綺麗は痛みの代償ね。心は元気だけど、身体はまだちょっと違和感があるの。本当の自分になれたのに、おかしな話ね」  彼女はワインをぐいっと飲んだ。  彼女が性転換手術を受けるまで、様々な葛藤があったのは想像に難くない。彼女が性同一性障害という困難を受け止め、心身に傷をつけながら手に入れた本当の姿は、お世辞抜きで美しかった。 「身体が落ち着いたら話したいことがあるって言ったの覚えてる?」 「もちろん、覚えてるよ」  彼女は僕の言葉を聞くと、一気にワイングラスを空にした。僕もつられてワインを飲み干してしまう。 「私ね、好きなの。あなたのこと。学生時代から、ずーっと」  かつて、彼だった彼女の指先が震えている。 「ごめんね、こんなこと言って。また甘えてる。手術前もあんなに泣き言を聞いてもらったのに」  彼女は手術前に、性同一性障害だということを僕にカミングアウトしていた。その時、僕はあまり驚くことはなかった。きっとそうだろうと予想していたからだ。仕草や声の節々に女性らしさがあったことを、学生時代から気付いていた。彼だった彼女はそれに気付かれないように、必死に男らしく振舞っていたのを思い出せる。無神経な同級生にそのことを揶揄われていることもあった。 「思ったんだけど、いつも支えてくれてたよね。学校で変ないじり方されてるときも、それとなくフォローしてくれたりしてさ」  彼女は昔から、男の割に華奢な体付きだった。  ずっと自分の横にいて、気の合う親友だったんだ。 「いつも優しくって、私のことを受け入れてくれて。伝えたくて。でも、半年前の私は本当の私の姿じゃなくって……。ああ、もう、うまくまとまらないや」  彼女はまたワインを飲み干す。気が回るバーテンダーは新しいワインを持ってきた。  あまりにもアルコールのペースが早い。 「おいおい、あんまり飲みすぎるなよ」 「飲まないと、言えないから」  彼女は身体ごと僕の方を向き直し、真っすぐに僕を見つめる。 「ずっとずっと、ありがとう。ずっと、好きでした」  憂いを帯びた表情で、僕に告白をしてくれた。  その顔は本当に美しく綺麗なのに、言葉の伝え方はあまりにも不器用で、それが愛しかった。 「こちらこそ、ありがとう。でも……ごめんな」  そう伝えると、彼女は大きく息を吸い込んで、カウンターテーブルに突っ伏した。 「あー……だよねぇ。ううん、ごめん。ちゃんと答えてくれてありがとう」  他人から見たら僕はただの馬鹿だろう。大したことのない男が、こんな美女をフッてるんだから。  彼女が落ち着くまでに少し時間がかかった。僕は何も言わず、ワインをちびちびと飲みながらそれを待つ。店内のBGMはショパンの夜想曲(ノクターン)が流れる。本当に良い雰囲気の店だ。静かすぎなくて、丁度いい。 「ごめん、ありがとう」  彼女は何度も謝りながら、感謝の言葉を伝えてくる。目が少し赤い。 「本当の私で気持ちを伝えたかったの。自信を持って、あなたにぶつかってみたかった。嘘をつきたくなかった。でも、違うよね。恋愛と友情は違う。簡単なことなのに、夢見ちゃった。気にしないでね、すっきりしたんだから」  彼女は微笑む。その笑顔のなかには色々な想いがあるのだろう。彼女に、僕も嘘をつくべきではないと思った。 「あのさ、僕ゲイなんだ」  彼女は驚いた顔をしてこちらを見つめる。  夜想曲がただ、ふたりの間に流れていく。  学生時代、彼女は自分の横にいた華奢な男の子だった。肩も細く笑顔が愛らしくて、美しい二重の目は僕の胸を高鳴らせていた。守りたい、独占したい、親友だと言ってくれる彼にこんな気持ちを持つ背徳感がいつだってあった。  彼女の気持ちに甘えていたのは、僕の方だったんだ。 「それで、ずっと好きだった」  彼女はワイングラスのふちを指でなぞりながら相槌を打つ。 「うん……ありがとう」 「でも、それは男として、男の君が好きだった。それは今も変わらないって、会ってわかったんだ」 「両想いだったのにね。こんなすれ違い、あるんだね」  彼女は精一杯の作り笑顔をしている。  彼女の性自認が男ではないのに、男である彼女が好きだと伝えることは、彼女のためにならない。もし手術前にこの気持ちを彼女に伝えたら、彼女はきっと迷っただろう。自分を偽って男のままでいるか、それともこの恋を諦めて本当の自分を取り戻すのか。僕は、彼女に自分を偽ってほしくなかったんだ。無理をした彼女を見たくなかった。そのために、この恋を諦めることになっても。  彼女は頭の回転が早い。きっと僕が考えていることを、慮ってくれている。 「辛い思い、させちゃったね」 「僕の方こそ、ごめん」  沈黙を店内のBGMが埋めていく。夜想曲は第十一番に差し掛かろうとしていた。店内のワインボトルが照明の光を反射させて、きらきらと輝く。  その光のなかに、昔の自分達の姿を重ねていた。 「店、変えようか」 「そうね、賛成。次は騒げる所がいいわ」  雰囲気を変えたくて、店を変えることにする。さっと会計を済ませ、店の外に出た。  木枯らしが冷たい。 「おお、寒いな」 「スカートを履けるのはいいけど、寒さにはまだ慣れないわ」  ふふっと彼女は笑う。僕もつられて笑ってしまう。 「ねぇ、お願いがあるんだけど」  彼女は顔を伏せながら言った。 「あの大通りに出るまででいいから、手を繋いでほしい」  僕は彼女の手を握り、ゆっくりと歩き出した。  彼女の耳は紅く染まっていく。  僕達は本当の自分を探して、いつだって迷いながらすれ違ってきた。  それでも、今この一瞬だけは。  二十メートル先のあの大通りに出るまで、僕達は恋人になる。
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