チョルヌィー

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チョルヌィー

 バイトの帰り道、薄い靴底にアスファルトの堅さを感じながら、左右の足をひきずるように前へと運ぶ。一刻も早くうちに帰り着きたかった。  とにかく今日は疲れた。一日中設営バイトで走り回って、ろくに昼飯も食えなかったのである。  それもこれも新卒二年目の関の所為だ。あいつがろくに確認もせず、更新前の古い図面を持ってきたお陰で、四十五度ずれたまま会場設営をしていたことが、半分以上仕上がった時点で判明したのだ。  現場は半狂乱になった。ただでさえ人手不足の中、一人が三人分働かなくちゃならない状況なのになんという二度手間だろう。  組みあがったステージを南西に四十五度ずらし、五千脚のパイプ椅子をそのステージに向けて並べ直さねばならなかった。  配線や搬入も始まっていたので養生からやり直しである。リハーサルまであと五時間しかない中、ここまで三時間かかっていることを思えば事態は絶望的だった。  たかだか設営のバイトで三人分の働きを強いられた上に、会場を1.5回分設営したのだ。それなのにバイト代は元の額と変わらない。なんとも割の合わない話である。騙された、とまでは言わないが、何かしら支払われるものがあってもいいぐらいなのに、あったのは関の「さーせんしたー」だけだった。    今日の出来事をもやもやと振り返りながら、ようやく辿り着いた玄関の鍵を開ける。取っ手に手をかけてから「ああ」と思い出した。今日は誰も家におらず、夕飯を自分で用意せねばならないのだった。コンビニに寄るべきだったと後悔する。 「……迂闊」  盛大にため息をつきながら玄関に上がる。リビングへの扉を開け、部屋の灯りを点けたらソファに寝転んでやるつもりだった。晩飯なんか、もうどうでもいい。  しかし灯りを点けて部屋が明るくなった時、ソファの上にあるものを発見して色めきたった。  黒いふわふわの塊。あのシルエットは間違いない。ソファに丸まっているのは今年六歳になる黒猫のチョルヌィーである。眠っているのか、猫の割に彼は侵入してきた人間に気づいていない様子だ。 (少し驚かせてやる……。フフ)  これまでの疲れも吹き飛んでそんな悪巧みにほくそ笑む。  チョルヌィーに対してはいささか意趣がある。いつかのある日、キッチンにミネラルウォーターを取りに行った時のことだ。冷蔵庫に手を掛けたところ、突然上からチョルヌィーが降ってきたことがある。あまりの突然さに、十九年の人生で一度も出したことのない悲鳴をあげてしまった。  その時の彼は、登ったはいいが降りられなくなったのか、手近に足場となる人間が来るのを待ち受けていたようなのだ。家族に聞くと、みんな一度は同じ目にあっているらしい。本当に困ったやつだ。  あの時眉間についたチョルヌィーの爪痕は、とっくに傷が癒えた今でもうっすら残っている。これは意趣を返す絶好の機会だった。  抜き足差し足……、心の中で生まれて初めてのセリフを呟く。  頭の中でシミュレーションを立てる。ばっと掴みかかると、チョルヌィーは飛び上がってびっくりするに違いない。想像するだけでうきうきする。こんなことなら動画を仕掛けておけばよかった。チョルヌィーには家族全員いたずらをされているのだ。みんな溜飲を下げるに違いない。ああ、これをみんなに見せられない事が残念で仕方がない。  そうしてその時はついにやってきた。じっくり時間をかけて、あと一息のところまで距離をつめる。呼吸を止めて一瞬、それはこれまでのどのシーンよりも素早い動きだったと思う。目にもとまらぬ早業で、チョルヌィーの両方のわき腹を掴んだ!!  そう思った次の瞬間、沸き立つかのようだった身体中の血は、両手を伝う違和感で一気に冷めた。  なんと手に掴んだそれは、チョルヌィーによく似た黒いもこもこのブランケットだったのだ!  一瞬にして虚脱感に包まれる。いったい何が起こったと言うのだ? その時、背後から注がれる何者かの視線を感じた。  ゆっくりと、手繰り寄せるように背後からの視線に振り返る。その正体に気づいたとき、冷めきっていた血が今度は凍りついた。そこにはチョルヌィーの青い瞳があったのである。  ……惨敗だ! いったい何度目の敗北だろう! それは罠だったのだ。彼は絶好の位置から一部始終を見ていたのである。間抜けな人間が、それを猫だと思ってイタヅラをするに違いないと……。  ああ、思い出せば今朝のことだ。「チョルヌィーみたいでしょ?」と言って、出勤前の姉が丸めたブランケットをソファに置いて出かけたのだった。今ならまざまざと、記憶によみがえらせることができる。 「くそ……、して、やられた……!!」  わなわなと震えさえ襲ってくる。猫に手玉に取られる間抜けな人間が一人、リビングに佇んでいる。  その間抜けな人間は、黒いブランケットを鷲掴みにしたまま、興味を失ったチョルヌィーが、そっと目を逸らすのを黙って見ている事しかできなかった。 「ふ……動画撮ってなくてよかったな」  そう、それだけが今、唯一の救いだった。
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