少年

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少年

 少年が生まれてすぐ、その国は戦場と呼ばれるようになった。  発展途上のこの国に経済的価値を見出した大国が侵攻を始めたのである。  空腹に耐える昼、恐怖に震える夜、家族の生存を確認する朝。物心ついた頃から少年の人生はその繰り返しだった。  生きることは苦しく、死ぬことは怖い。幼い少年はそう生きてきた。  そんな生活の中にも幸せはある。  少ない食糧を家族で分け合って笑い合う瞬間は少年にとって、生きる理由の全てだった。  逃げて、生きて、苦しんで、生きて、怯えて、生きて、四歳になった少年。父と母の三人で身を寄せ合って暮らしていた。   「美味しいね」  家と呼ぶにはあまりにも劣悪な状況で少年が母親に笑いかける。柱に布を縛って屋根を作っただけのそれは、少年にとって紛れもなく家であり、乾燥によって石のような食感を得たパンは、少年にとってご馳走だった。  少年の言葉を聞いた母は、悲しげな瞳で答える。 「ごめんね、こんな生活で」  その横で父も俯いていた。  幼いながらに少年は疑問を抱く。どうして母が謝るのだろう、どうして父は苦しそうな顔をしているのだろう。悪いのは戦争で、間違っているのは世界の方だ。   「僕は幸せだよ。お父さんとお母さんがいれば、それだけで幸せ」  少年は素直にそう答える。この夜まではそう、答えられた。  けれど、世界は少年の小さな幸せすら許さないらしい。この苦しい世界を生きる理由を奪い去ってしまったのだ。  当初の想定よりも必死に抵抗するこの国に痺れを切らした大国は、兵を増員し大規模な一斉侵攻を開始したのである。  そして、少年の暮らしていた場所も侵攻範囲内だった。  途切れることなく繰り返される銃声、悲痛な叫び声、蹂躙する足音。少年が五歳を迎える誕生日に聞いた目覚ましは、地獄の扉が開いたのだ、とさえ思わせた。  何が起きているのか理解できないまま、少年は父に抱えられ、家から飛び出す。だが、もう遅かった。  その場は数人の敵兵に囲まれ、逃げ場などない。 「頼む、この子だけは!」  状況から自分たちは助からないと悟り、父が少年の命を乞う。しかし、大国の兵にとってそんな言葉は、壁に描かれた落書きのようなものだ。特別大きな意味を持たない。  それは聞く必要のない言葉である。  最初に撃たれたのは父だった。銃声と同時に父が倒れ、少年は地面に投げ出されてしまう。五歳になったばかりの少年に受け身など取れるわけもなく、頭を強く打ちつけ意識を失った。  終わりを告げる、二発目の銃声を聞きながら。  もしかすると、目を覚さない方が少年にとって幸せだったのかもしれない。  皮膚を焼くような日差しが、少年を目覚めさせる。  意識を取り戻した少年が最初に目にしたのは、自分に覆いかぶさる母の遺体だった。   「母さん!」  少年が呼びかけても反応などあるはずがない。声を掛けるたび、触れるたびに、母はもう死んでいるという事実が鋭く突きつけられた。母は自分を守って死んだのだ。  五歳の少年には非情すぎる事実である。一人では母の死を受け止めきれず、少年は父に声を掛けた。 「父さん……母さんが」    しかし、父からの返事もない。少年の目に映ったのは仰向けで倒れ、額に空いた穴から血を流す父の姿だった。  少年は父に駆け寄り、その体に触れる。母と全く同じ温度と質感。それは父の死を理解するのに充分すぎる情報だった。  父と母、生きる意味を同時に失った少年は導かれたように銃を握る。  そしてその日、大国への復讐心だけが少年の生きる意味になった。目に焼きついた兵士たちの顔が頭から離れず、少年は大国と戦うことを選んだのである。  少年兵として志願し、少年は戦場に立った。そこから見る世界はひどく歪んでいて、くすんでいて、煙たい。少年は戦場で、命は紙切れよりも軽く、配給される水よりも流れる血の方が多いことを知る。  それでも少年は必死に生きた。父と母が最後に守ってくれた命を無駄にせず、大国に復讐する為に。  けれど、いつまで経っても銃には慣れない。自分の大切なものを奪った銃を受け入れることができなかった。  身を守る為に持っているだけ、ただの装備品である。  そして、地獄の扉が開いた日から二年が経った。少年は七歳になり、未だ戦争は終わっていない。  今日も少年は前線を彷徨う。主な仕事は、そこらじゅうに設置された大国の情報機器の破壊だ。それならば銃を扱えずとも役に立てる。少年でも大国に害を与えられる。  一つの仕事を終えた少年は、今日の配給を受け取るために仲間のいるキャンプへと向かった。  こんな状況では腹が満たされることなどない。だが、配給前は特別空腹がひどく、目が回る。ふらふら歩く少年の姿は、まるで生きる屍のようだ。体を支えているのは肉でも骨でもなく、復讐心。それは生きようとする美しさでもあり、醜さでもあった。  気配を殺しながら少年が歩いていると、突然小さな声が彼の鼓膜を揺らす。 「ナターシャ……」  聞いたことのない声に、呼ばれた名前。しかし、その声は少年に懐かしさを感じさせた。そうか、これは愛する家族を呼ぶときの声だ、と少年は声に導かれる。  糸の切れた操り人形のように、少年は自分の意思とは関係なく声の方に向かっていった。  少し離れた場所で、声の主を発見した少年は頭が沸騰しそうなほど驚愕する。そこにいたのはずっと探していた男だった。二年前、網膜に焼きついたあの顔。父と母を撃ち殺した大国の兵、その一人だった。  その瞬間、少年は銃に対する抵抗が消えていくのを感じる。引き金を引くことに何の躊躇いもなかった。  父と母の痛み、二人を失った少年の苦しみ、その全てを清算するために少年は銃を構える。 「動くな!」  少年は勢いよく飛び出し、男に向かって銃口を向けた。ずっと少年の体は震えている。  男は「落ち着けよ、少年。震えてるじゃないか。いいか、今お前が引き金を引いたら、俺はお前を敵として殺さなければならない。俺にこれ以上命を背負わせるのはやめてくれないか」などと言ったが、怯えや緊張ではなかった。  怒りだ。怒りと、復讐の機会を得た喜びに少年の体は震えていた。  感情のまま少年は引き金を引く。始まりを告げる、三発目の銃声を聞くために。
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