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男
戦場なんてどこもクソみたいなものだが、ここは特にひどい。
男はそんなことを考えながら、建物だったであろうコンクリート片の陰に座り込む。
互いの兵がぶつかり合い、瓦礫の山となったこの街では命が羽のように軽い。
火薬の匂い、四方から響いてくる銃声、爆発に伴って揺れる地面。そんなものは男が過去に経験してきた戦場にもあったものだ。
荒れ果てた、崩壊寸然のこの街では十歳にも満たない子供たちが使い古された銃を握り、殺意を持って敵と戦っている。大国ならば学校に通い、フットボールをしている年齢の子が当然のように戦場で殺し、殺されていた。
もちろん、敵の中には座り込んでいる男も含まれていた。
男は自分の左胸の勲章に視線をやる。誇らしげにその場所を飾っていた。そこから視線をずらすと左肩には階級章が、自分の存在を主張する。
「こんなことをするために……子供を殺すために偉くなったわけじゃねえよ。生きて帰ったら神なんてガレージセールで売っぱらってやる」
男はそう呟いた。
神がいるのならこの地獄を終わらせてくれ、と何度も願い、何度も祈った。けれどいつになっても戦争は終わらない。わかっていた事だが、この戦いの終わりはどちらかの敗北だけである。
何のためなのか、何がきっかけなのか、そんなことはもう覚えていない。ともかく数年前に大国は、熱気と湿気に包まれたこの発展途上国へ侵攻を始めた。
その大国の陸軍に男は所属しており、この侵攻戦が荒れ始めた頃に派遣されたのである。もう二年以上も家に帰っていない。
「ナターシャ……」
男は胸ポケットに大事にしまってある写真を取り出し、写っている幼児に向かって声を掛ける。
早く娘に会って抱きしめたい。そんなことを考えながら、男は反対の胸ポケットを探る。あと一本、タバコが残っていたはずだった。
しかし、タバコはくしゃくしゃに折れ曲がり、中の葉が散らばっていた。これではもう吸えない。
「くそ、ひでえ話だ。これだけあちらこちらで爆煙が上がってるってのに、吸う煙はどこにもありゃしねえ」
言いながら男は無惨な姿になってしまったタバコを地面に捨てる。
強すぎる陽の光がジリジリと肌を焼き、血の味がするほど喉が渇いていた。軍服は砂と血にまみれ、靴の底が擦り減り、安物のサンダルよりも滑る。
「何が大国だよ、本当に」
男は自分のみすぼらしい装備を鼻で笑った。
本来、男の階級であれば戦場の前線に出ることなどない。しかし、この侵攻戦は想定していたよりも時間がかかり、想定していたよりも死者を出していた。それによって大国は、物資も兵も出し渋り始めたのである。そのため男も前線で銃を握ることになった。
前線に出るのは大規模な侵攻作戦以来か、と男は懐かしむ。
もはやこの戦場に階級も立場もなく、残っているのは敵と味方のみ。状況的には最後の総力戦といったところか。
座り込んだことで少しだけ体力を回復した男は、立ちあがろうと地面に右手をつく。
その刹那、男は砂を踏むような音を聞き顔を上げた。肉体と精神が疲弊し完全に油断していた。
「動くな!」
音の主は、まだ声変わりもしていない高い声で男に向かって叫ぶ。
六歳か七歳か、まだエレメンタリースクールに通い始めたくらいの年齢の少年が男に向かって銃を構えていた。
少年は怯えたように震え、下唇を噛んでいる。構え方から銃の扱いに慣れていないことも推測できた。
だが、誰が握っていても銃は銃。人間の命をいとも簡単に奪う凶器であり、狂気であることに変わりはない。
男は敵意を見せぬよう慎重に両手を上げてから、少年に話しかける。
「落ち着けよ、少年。震えてるじゃないか。いいか、今お前が引き金を引いたら、俺はお前を敵として殺さなければならない。俺にこれ以上命を背負わせるのはやめてくれないか」
男の言葉を聞いても少年は銃を下ろさない。震えたまま銃口を男に向けていた。
「言葉が通じてねえってことはないよな。もう一度言うぞ、俺はお前を殺したくないんだ。俺にはお前くらいの娘がいる。人として、親として、個人的にお前を殺したくない。銃を下ろしてくれ」
「黙れ!」
少年は男の言葉を聞き入れず、引き金に添えていた人差し指に力を入れる。しかし、引き金は溶接されているかのように重く、引くことは出来なかった。
想定外のことに焦った少年が慌てて手元に視線を落とす。男はその隙を見逃さずに立ち上がって、向けられていた銃口を握り、天に向けた。
天に向けられた銃を中心に向き合う男と少年。男は少年に対して悲しげな目を向ける。
「だから落ち着けって言ったんだ。安全装置が解除されてない状態では、撃てねえよ。包み紙を外さなきゃ、バーガーが食えねえのと一緒だ」
男がそう言うと少年は今にも泣き出してしまいそうな目をしながら口を開いた。
「離せ!」
「これも言ったはずだ、少年。引き金を引いたらお前は敵だ、ってな……」
戦場では敵を殺さなければならない。敵とみなした相手に、情けをかけるような者が生き残れるわけがない。男は嫌というほど戦場のルールを理解していた。
そのまま男は腰に装備していた自分の銃に手を掛ける。いつでもすぐに構えられるよう設計されたホルダーは、素早く銃を手放して男に託した。
男は少年に銃口を向けると、強く息を吐いた。それは覚悟を決めるようであり、心を捨てるかのようでもある。
「……じゃあな、少年。恨むならこんな世界を恨んでくれ、牛のクソを丸めたような世界をな」
安全装置は外してあった。引き金に掛けた指に力を入れれば、少年の命を風に吹かれた砂のように簡単に消し去ることができるだろう。
だが男の指は脳の指令を拒否していた。
先程見たばかりの娘と少年の姿が頭の中で被ってしまう。まだ幼い少年に何の罪があるというのだろうか。身を守るために、生きるために少年は銃を握るしかなかったのだろう。
ほんの一瞬。瞬きすら完遂できない程の時間、男は戦場のルールに背いてしまった。少年に情けを抱いてしまった。
そんな明らかな隙を少年は見逃さない。衣服に隠していたナイフを手に取った少年は、躊躇なく男の腹部に突き刺した。
少年の命を奪うことに躊躇いを感じていた男と、男を殺すことに何の躊躇いもない少年。最初から勝敗は決まっていたのかもしれない。
「ぐっ……ナイフを隠してたのか」
真っ赤に焼けた鉄を体内に捩じ込まれたような、熱い痛みを感じ身を丸める男。少年はナイフを引き抜いて、さらに男の首筋を切り裂く。
身を丸めたことによって、男の首は手を伸ばせば届く距離にあった。
二つの傷を負った男は理解する。自分はもう娘に会うことも、抱きしめることもできない。身を焦がすようなこの国で、焼け焦げたこの地獄で朽ち果てていくのだ。
「やっぱり神はいねえし、この世界はクソッタレだ……」
呟いてから、男はうつ伏せの状態で倒れる。頸動脈から噴き出す血と共に、体を支える力を失ってしまった。少年の足元で、流れ出た自分の血が広がっていくのを眺めながら、男は胸のポケットに手を伸ばす。
「ナター……シャ」
最後に娘の顔が見たい、それだけだった。
しかし、どうやらこの世界では、最後の望みも叶えられないらしい。
もう男には体をよじる力すら残っていなかった。自分の体で押しつぶした胸ポケットには、手が届かない。
せめて空を見上げようと視線を上げるが、その目に映ったのは何故か涙を浮かべる少年の顔だった。娘と被る少年の顔が流す涙を、ひどく悲しく感じ、男は力尽きた。
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