第壱章

3/12
前へ
/77ページ
次へ
 「…いいや、私は哀しんでなどいないよ。ただ人並みに桜太と笑い野を駆けたいだけだよ」  紅姫は、硝子玉(がらすだま)のような瞳で桜太を見てぽそりと呟く。    「紅姫、おいらは心で笑う優しい紅姫が好きだぞ。」    桜太がそう言いながら紅姫の手を取った。手は木で出来ており固く冷たい。人ならざる生き人形。それが紅姫の正体だ。桜太は赤子の時からずっと側に寄り添い生きてきた紅姫を、そういうものとして受け入れている。  「ありがとう。私は桜太がそう言ってくれると嬉しいよ」    かたりと首を傾け桜太に応える。紅姫には肉声を出す事が出来ない。魂が発する声を話したい相手の頭の中に直接響かせるのだ。だから、心で笑う、と桜太は言う。  動きは鈍く、表情も動かない紅姫。それでも紅姫は桜太を大切にし慈しみ育てている。桜太も紅姫を慕い懐いていた。  桜太の世界には紅姫と二人だけしかいない。月に一度、(さく)の日に墓参りをする。弥七と呼ばれる人物の事も桜太は分からない。紅姫が時おり懐かしそうに語り聞かせる話では、弥七は好々爺(こうこうや)だったという。  山で生きる(すべ)、山の外の恐ろしさ、そして桜太の事を教えてくれたという。紅姫は、弥七の教えに従い桜太を育てている。  桜太と紅姫の世界は閉鎖的でとても狭かったが、それでいいと二人は思っていた。人形である紅姫は、思考が人間ほど複雑ではなく単純だ。桜太もまだ幼く難しいことは分からない。世界は良いか悪いかで出来ており、それで十分だった。  要らぬ知恵(ちえ)は不幸を呼ぶ。知らなければ幸せが崩れる事はない。 「桜太、弥七が眠る樹に変わらず元気だと伝えておくれ。」  紅姫がぎこちない足取りで漸く辿り着いた山間の谷の上にある桜の大樹の根元に花を添えて言った。 334e26af-8096-4ab7-99a6-ab626851afba
/77ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加