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6.人間
その日は、雨だった。
分厚い雲が空の隅々にまで広がっていて、街はざらばん紙みたいな色に包まれている。
水の滴る傘の群れをかきわけるのがイヤなわたしは、いつもより少し早く登校することにした。
スニーカーのなかに、遠慮なく染みこんでくる水が気持ち悪い。
靴下のなかでつま先は冷えるし、かかとはカチカチ。
こんなんだから、空と同じく、わたしの気分もまったくもって晴れる気配がない。
「寒っ」
土っぽい匂いのする廊下には、朝のキンとした空気が漂っている。
震えそうになる肩を両腕で抱き込むようにして、わたしは、教室へと急ぐ。
「え」
小さく声が漏れる。
柳瀬くんの大きな背中が、そこにあったからだ。
トリケラトプスみたいにたくましくて、ほんの少しごつごつとしている。
今、その盛り上がった背骨のところにそっと触れたら、きっと温かいんだろうな。
わたしの足は、彼に吸い寄せられるように、雨粒のたくさんくっついた窓のもとへと向かっていた。
ほかに、人は誰もいない。
好き。
わたしは、むしょうに、そう告白したくなった。
今が、チャンスかもしれない。
「今日も、自由が見えるの?」
静かに声をかける。
「うん。見えるよ」
柳瀬くんは、窓ガラス越しに外を見つめたまま、そう言った。
彼の視線の先を追うものの、雨のせいで、視界には灰色のモヤがかかっている。
気力を失くしたグラウンドが、どんよりと、向こう側にあることだけが、たしかだった。そんな、雨の日の、ありふれた光景を目にしたとたん、わたしは我に返り、頭が冷えていくのを感じた。
夢から覚めて、現実の世界に引き戻されたかのよう。
なにを、告白だなんて馬鹿げたことをしようとしていたんだ!
首をぶんぶんと振っていると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「えっと、その……」
なんでもない、と言いそうになるのを遮ったのは、柳瀬くんの言葉だった。
「ここから外を眺めているとね、なんだか元気になるんだ」
「あ! 自由が見えるから?」
わたしはさっきのヘンテコな言動をごまかそうと、大袈裟なくらいに、声を張り上げた。
「そう。木の葉っぱが揺れているのとか、小鳥が枝の上を歩いているのとか、大きな雲が風に流されているのを見るとね、今いる場所の外側を見ている気になれるんだ。ええっと、なんていうのかな、自由な世界。それから、僕も、いつかはそこまで行けるんだって思えてね、ワクワクするんだ」
柳瀬くんは、珍しくよく話した。
「……自由。そっか。うん」
「こういうこというと、変わってるっていわれるんだけどね」
柳瀬くんは、困ったように笑った。
その横顔を見ながら、頬がカッと熱くなるのを感じた。
この四角い窓のフチは、彼を縛るものなんかじゃなかったんだ。
むしろ、自由を見せてくれる魔法の鏡だったんだ。
わたしは柳瀬くんのこと、ぜんぜん、わかっていなかった。
心のどこかで、自分だけが彼を理解してあげられるかもしれないだなんて、思いあがっていた自分をぶん殴りたい。
「ただね」
「え?」
柳瀬くんがポツリと呟く。
「今日は、いつもと景色が違うんだ」
それは、雨が降っているからだとかいう単純な理由ではないんだろう。
だって、彼の声は、さっきより小さく、弱弱しくなっている。
「……そうなんだ」
わたしは、柳瀬くんが「景色が違う」と感じているワケを知りたかった。
でも、さっきの羞恥心が顔をだして睨んでくるんだ。
柳瀬くんから理由を聞いて、ひとりで妄想を繰り広げ、万が一にでも変なことを言ってしまったら、もう立ち直れない。
そんなことを考えているうちに、足音が近づいてきた。
ふりむくと、美咲がにんまりと笑っていた。
一時間目は、歴史の授業だった。
チョークの先が黒板を叩く音が、教室中に響いている。
わたしはぼうっと窓の外を眺めながら、今朝の柳瀬くんとのやりとりを思い出していた。
ちらっと後ろを振り返り、柳瀬くんの席を見る。
もう、彼がトリケラトプスに見えることはなかった。
はるか昔から、タイムスリップしてきただなんてことも思わない。
柳瀬くんは人間だ。
わたしと同じように、悩んだり、落ち込んだりする人間なんだ。
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