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章吾と村長の話し合いで、明日覆いが撤去され、明後日から治療が行われることが決まった。
明日に備え、三人は早めに宿へと戻る。
さすがに旅の疲れが出たのか、夕食の席で眠い目をこすりながらもしっかりと食事をしている千尋とは対照的に、章吾の箸は止まっていた。
「日程が決まったっていうのに、章吾兄は何でそんな浮かない顔なんだ?」
「……喜助さんを説得できなかったのが、心残りで」
「あんな頑固じいさんなんか、放っておけばいいさ。ただ心配なのは、作業の邪魔をされないか。それだけだな」
大吾は放っておけと言うが、章吾としてはこれまでと同様、周囲の理解を得て作業を進めていきたいと思っている。
しかし、祖父の吾右衛門もそうだが、人は年を取ると自分の考えに固執し、他人の意見に耳を貸さなくなる傾向が強い。
そういう人物に納得してもらうには、どうすればいいのか。
自分の話をまったく聞いてもらえない章吾は、八方塞がりの状況だった。
「あの……」
食事を終えた千尋が、遠慮がちに二人に声をかけた。
「君も、今日は疲れただろう? 食事が終わったら、部屋に戻って早く休んだほうがいい」
「ありがとうございます。では、そうさせていただきます。でも、その前に少しお話が……」
「ん?」
千尋は二人へある話をすると、すぐに部屋へ下がった。
まだ寝るには早い時間だが、明日の準備を終えると自分で布団を敷き横になる。
足を伸ばして寝られることに感謝しつつ、千尋が夢の中へ旅立つのにそう時間はかからなかった。
◇
翌日の早朝、三人は桜の木へ向かっていた。
朝、千尋が目を覚ましたときから外は霧が立ち込めており、視界が悪い。
そんな中を慎重に歩きどうにか柵までたどり着くと、どこからともなく風が吹いてきた。
桜の木の周辺だけサーッと霧が晴れ、柵の中に人影が見える。
桜に寄り添うように立っていたのは、喜助だった。
「喜助さん、おはようございます」
「…………」
「今日、その覆いは撤去させてもらいます。そして、明日……」
「……村長から聞いた。木の状態が非常に悪いもんで、すぐにでも対処せにゃならんと」
章吾の顔は見ずに、喜助は覆いを見上げる。
「全部、オラが悪い……昔あんなことをした、ばっかりに……」
「あんなこと?」
「ア、アンタには、関係のないことじゃ!」
慌てたように言葉を吐き捨てると、喜助は三人に背を向け歩き出す。
やはり、最後まで聞く耳を持ってもらえなかったと章吾が残念に思っていると、千尋が喜助の後を追った。
「待ってください! 幹が割れたのは大雪のせいであって、喜助さんのせいではないですよ!!」
「……おまえさんたちに、何がわかるんじゃ! 適当なことを言わんでくれ!!」
「喜助さん……桜の木は、『許す』と言っています」
「!?」
大きく目を見開き動きを止めた喜助へ、千尋は言葉を続ける。
「毎日、許しを請うていますよね? 桜の木は、こうも言っています。『幼子の行いを、咎めるわけがない』…と」
「な、なんで、おまえさんがそのことを……」
「あなたに伝えてほしいと言われました。いつまでも、気に病まないでほしい。そして、これまで守ってくれてありがとう、と」
喜助はギュッと目をつむり何かを唱え始めたが、章吾たちには聞こえない。
千尋は喜助へ、ただ優しく微笑みかけている。
章吾と大吾は、そんな二人を黙って見つめるしかなかった。
しばらくして、喜助は桜の木から離れた。
去り際、章吾の前を通り過ぎたときに「アンタに、桜は任せた」と言い残して。
◇
いつの間にかすっかり霧は晴れ、朝日が山間から顔を出している。
三人は、宿への道を歩いていた。
「喜助さんは子供の頃あの桜の木に登って、誤って幹を傷付けてしまったことがあるんです。その傷のせいで、大雪のときに幹が割れてしまったとずっと後悔されていて……」
「じいさんが、あの桜の木に登ったっていうのもすごいが、そもそも数十年前の話だろう? そのときの傷なんて、さすがに関係ないと思うぞ」
「私たちはそう考えますが、当のご本人からすればずっと思い悩まれていたのでしょうね」
まあ、とにかく喜助さんが納得してくださって良かったです!と、千尋は元気よく歩いていく。
早朝から活動したため、お腹はかなりぺこぺこだ。
昨夜の夕食が美味しかったので、朝ごはんは何だろう?と期待に胸を膨らませている。
「ありがとう……また、君に助けられたな。私だけでは、どうにもならなかった」
「先生のお役に立てたのであれば、よかったです」
また恩人の力になれたことが嬉しく、千尋の顔に笑顔があふれる。
昨夜、千尋は「早朝に、桜の木のもとへ行きましょう」と二人を誘っていた。
毎朝、喜助が来ていることを知り、彼と話をするべく会いに行ったのだった。
「聞く耳を持たないあのじいさんも、さすがに『桜の木がそう言っていた』なんて言われれば、とりあえずは聞くもんな。まあ、出まかせの言葉にしては、良かったんじゃないか」
「えっと……出まかせではないですよ。桜の木は、本当にそう言っていました」
「「えっ?」」
驚きの表情で固まる兄弟へ、意を決し千尋は口を開く。
「もう薄々とお気づきかとは思いますが、私は植物の心を感じ取ることができます」
「「…………」」
「これまで皆さんへお見せしてきたものすべてが、これのおかげなのです」
ついに、千尋は章吾たちへ秘密を明かした。
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