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好いた水仙、好かれた柳?
「賢吾兄、大事な話があるんだが……」
大吾が切り出したのは、久しぶりに家族全員で夕食を取り、食後のお茶を飲んでいるときだった。
「それは、千尋ちゃんの話を聞いた後でもいいか?」
「いや、これはすぐに終わる話だ」
大吾はちらりと章吾のほうを見たあと、話を切り出した。
「俺は、千尋を人生の伴侶にと考えている。だから、本人へ求婚する前に、賢吾兄の許可をもらいたい」
「!?」
「大吾おじさま!」
「ホッホッホ……」
兄弟ではあるが、千尋の雇い主である賢吾へきちんと筋を通した大吾に、章吾は無言になり、加代は驚きの声を上げ、吾右衛門は楽しげに笑っている。
「章吾兄、俺は宣言通り、遠慮なく行かせてもらうぞ?」
「……受けて立つ」
挑戦的な大吾を、章吾も真正面から見据える。
これまで直視することをさけていたが、章吾もついに自分の気持ちと向き合う決意を固めた。
「えー!?」
「なんと!!」
一人の女性を巡って火花を散らす兄弟に、姪と祖父は大興奮だ。
「……ちょっと待て! 章吾、おまえもなのか?」
「私も、千尋さんとの将来を真剣に考えている」
目を逸らさず、章吾はきっぱりと言い切った。
わかりやすい大吾の気持ちには気付いていた賢吾だったが、章吾の告白には驚きを隠せない。
いい歳になっても一向に所帯を持つつもりのない弟に、それなりの商家の娘と見合いをさせる算段だった兄の目論見はもろくも崩れさる。
「何てことだ……」と頭を抱える父に、娘は「父さま、反対しないで!」と懇願した。
「わたしは、ふたりを応えんするわ!」
「儂もじゃ! 二人とも、正々堂々と戦うんじゃぞ」
加代にとっては、どちらかの叔父が千尋と結婚してくれれば、これからもずっと千尋との関係は続く。
吾右衛門にとっても、孫の嫁ということで、気兼ねなく交流することができる。
二人にとっては、願ったり叶ったりの状況だった。
「……悪いが、二人とも結婚の許可はできない」
「なんでだよ! 千尋が使用人だからか? 身分が違うとか、そんなくだらない理由で……」
「身分の問題は、もちろんある。しかし、今はそれが理由ではない」
「じゃあ、何だよ?」
「千尋ちゃんは、来週うちを辞めて出て行くことが決まった」
「はあ?」
まさに寝耳に水の話に、「イヤよ!」「俺は、そんな話は聞いてないぞ!」「賢吾、どういうことじゃ!」と言葉が飛び交う。
「……兄さん、詳しい話を聞かせてくれ」
「詳細は僕の口からは言えないが、千尋ちゃん側の事情とだけは言っておく」
「千尋さん側の事情?」
「とにかく、彼女が話をすると言っているのだから、それを待ってくれ」
賢吾の言葉に、皆は渋々納得する。
千尋の話を聞くために、全員が応接間へと向かった。
◇
応接間にやって来た千尋は、全員と向き合った。
「千ひろさん、うちを辞めるって本当なの?」
我慢できず口火を切ったのは、加代だった。
「加代お嬢様、申し訳ございません。来週でお暇をいただき、以前働いていた店に戻ることになりました」
「どうして、急にそんなこと……」
「そうだぞ、俺たちにきちんと説明してくれ!」
「その前に、私のことからお話したいと思います」
千尋は、これまでのことを順を追って話し始めた。
実家は薬房で自分はずっと薬草栽培をしていたが、父が亡くなりその後は三条薬房へ薬草を卸していたこと。
高鷲家に紹介した薬房は、父の弟子の店だったこと。
「かなどめ薬房……」
章吾は、その名に覚えがあった。
三条薬房の前に加代の薬を買っていた店が、かなどめ薬房だったのだ。
「そうでしたか、加代お嬢様は以前は父の薬を……」
「わたしは、その頃から千ひろさんとつながりがあったのね。それなのに……」
寂しそうに笑う加代の横で、大吾が首をかしげる。
「そんなおまえが、どうして鉢植え売りをすることになったんだ? 実家の薬草園はどうした?」
「それは……」
言葉に詰まった千尋に、賢吾は「無理に話をしなくてもいい」と声をかけた。
「……旦那さまは、秀雄さまからどこまで話を聞いておられますか?」
「弟君と行き違いがあり、あなたが家を出たと。それから、秘密裏に行方を探していたとだけ。それと、その件を口外しないようにと口止めもされている」
「行き違い……ですか」
さすがに秀雄も、実の所業までは話をしていないようだ。
一方的に自分を追い出しておいて、都合の悪いことは隠したまま、今度は強引に連れ戻す。
あまりにも身勝手な三条家に、千尋はだんだん腹が立ってきた。
「……私は、三条薬房の店主の許嫁だったのです。しかし、婚約は一方的に解消され、薬草園は無理やり買い取られました。だから、家を出たのです」
今までずっと隠し通してきたが、高鷲家の面々だけには真実を知って貰いたかった。
「何だよそれ、ひどい話じゃないか!」
「僕が聞いていた話と、随分違うな……」
「そんな所に、君は戻るのか?」
章吾は、三条薬房が千尋を連れ戻す理由をはっきりと理解した。
千尋がいなくなったことで薬草の品質が下がり、薬の効能が下がったのだろう。
だから、慌てて彼女を捜したのだと。
「仕方ありません」
「戻る必要なんかないだろう? 千尋は、ずっとうちに居ればいい!」
「僕だって、本音を言えば千尋ちゃんを手放すのは惜しいと思っている。しかし……無理なんだ」
「どうしてだよ!」
「三条家の長兄秀雄さまは、華族に仕える典医です。私が命令に逆らってここに居続ければ、高鷲家にご迷惑がかかります」
高鷲家へ必ず圧力がかかると、千尋は暗に告げる。
「華族……」
権力者の名を出され、ようやく大吾も理解する。
「家に戻って、君はその元許嫁と結婚するのか? やはり、まだ彼のことを……」
「結婚はありません。実さまにはすでに新しい許嫁の方がいらっしゃいますから、私を連れ戻すためのただの口実かと。それに、もともと愛情もありませんでしたし……」
「そ、そうか……」
結婚も愛情もないと聞き、章吾も大吾も心から安堵した。
今にも泣き出しそうな顔をしている加代と吾右衛門に「手紙を書きます」と微笑み、「おまえの薬草園がどんなものか、俺が見に行ってやる」と言った大吾には「時期的に、今は何も植えられていないと思いますけど……」と苦笑しながらも頷いた千尋を、章吾は見つめる。
なぜか胸騒ぎがする自分を、必死に抑えながら───
◇
それからすぐに、この場はお開きとなった。
私室に戻った章吾は、机に置いてある細長い箱を手に取る。
「『ミノルさま』って、元許嫁の名だったんだな……」
そして、新しい許嫁というのがおそらく樹静子なのだと確信を持つ。
あのときの千尋の心境を考えただけで、章吾の胸は張り裂けそうになる。
『僕も知識を増やして、できれば先生のように植物を救いたいです』
夢を語っていた千尋の姿が、章吾の脳裏に鮮明に浮かぶ。
これから不遇の立場に置かれてしまう彼女の力になってやれない自分の無力さが、心底嫌になる。
章吾は、いつまでも箱を握りしめていた。
◇
高鷲家での残りの日々を、千尋は今までと変わらず過ごしていた。
加代や吾右衛門の話し相手になったり、章吾や大吾の助手を務めたりと、以前と何ら変わらない光景。
そして、時間があれは書庫で熱心に本を読み、章吾に教えを乞う。
「章吾さま、樹医になるにはどうすればいいのでしょうか?」
「特に養成学校があるわけではないから、誰かに師事し、教えを乞う形になる。私は、異国から来た先生に教えを受けた」
「なるほど、自分で先生を探せばいいのですね」
元の店に戻っても夢を諦めたわけではない千尋の姿に、章吾はホッとする。
書棚の中から、一冊の本を取り出した。
「これは、私の師から頂いた本だ。翻訳本だから多少読みにくいかもしれないが、君に……」
「そんな、大事なものは頂けません!」
「基本的な事柄が書かれたものだから、もう私には必要ない。だから、まだ駆け出しの君に読んでもらいたい……助手への餞別として」
章吾は押し付けるように、半ば強引に渡した。
「それと、ついでと言っては何だが、これも……」
章吾が懐から取り出したのは、どうしても千尋に渡したくてずっと持ち歩いていた細長い箱。
桜の簪を見た千尋の目が輝く。
「綺麗ですね」
「これは、喜助さんがあの桜の枝で作ったものだ。彼は、私の好…知り合いに渡してほしいと言っていたが、女性の知人は君しかいないからな。それに、君が持っていたほうがあの桜の木も喜ぶだろう」
一般的に、男性が家族以外の女性へ簪を贈ることには意味がある。
求婚、求愛など、自分の恋情を相手へ明確に示すものだ。
もちろん、章吾でもこの行為の意味は知っている。
知っていて、あえて知らないふりをして千尋へ渡そうとしているのだ。
「ありがとうございます。両方とも大切にします」
笑顔で受け取った千尋の顔は喜びに満ち溢れ、章吾の胸は締め付けられるように苦しくなる。
喉まで出かかった言葉を、無理やりぐっと飲みこんだ。
「短い間でしたが、いろいろと教えてくださり、ありがとうございました」
「私こそ、君にはたくさん助けてもらった。ありがとう」
◇
翌日、うろこ雲が広がる秋晴れの空の下、千尋は三条家が手配した馬車に乗り、高鷲家を去っていった。
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