石が流れて、木の葉が沈む

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石が流れて、木の葉が沈む

 七か月ぶりに実家へ戻った千尋は、部屋の掃除をしていた。  とっくに捨てられていると思っていた家具はそのまま残されており、鍋などの生活用品もすべて揃っている。  どうやら後任者がそのまま暮らしていたようで、すぐに生活が始められる状態であることに千尋は喜んだ。  薬草園は草がすべて刈り取られており、土がむき出しの状態となっていた。  本格的な栽培は来年の春からだが、千尋は天候を見て、数日で収穫が可能な薬草を育てるつもりだ。  ◇  掃除を終えた千尋は、買い物を兼ねた散歩に出てきていた。  十一月に入り、季節は少しずつ秋から冬へと移り変わっていく。  長閑な田園風景の中を歩いてやって来たのは公園……大切な思い出の桜に会いに来たのだ。  紅葉した葉を茂らせた桜に変わりはなく、安心した千尋は髪に着けていた簪を外す。 「これはね、あなたの大大大先輩の枝で作った簪なのよ」  千尋は、桜へ見えるようにかざす。 「とっても長生きだから、あなたなら『若輩者』って言われそうね……」  クスッと笑った千尋は、簪を髪に戻す。  それからしばらくの間、千尋のおしゃべりは続いた。  桜へ会いに行き、元気が出た千尋は意気揚々と家に帰ってきたのだが、すぐにその気持ちはしぼんでしまう。  家の前で待ち構えていたのは元許嫁…実だった。  ◇ 「私に、何のご用でしょう?」  許嫁だったときは一度も訪れることがなかった実が、一体どういう風の吹きまわしなのか。  いぶかしがる気持ちが、そのまま素直に言葉に現れた。 「随分な物言いだな……」  苦笑いをしながら千尋が出したお茶を一口飲んだ実は、じろりと不躾な視線を送ってきた。 「……おまえも、そんな恰好をしていたら、それなりにいい女だな」 (!?)  ゾワッと、千尋の全身に悪寒が走る。  賢吾から名を呼ばれたときとは全く違う体の反応。  心からの嫌悪感というものを、千尋は初めて知った。  千尋がいま着ているのは、加代と吾右衛門から贈られた餞別の品、普段着用の着物だ。  しかし、普段着とは言っても、加代とお揃いなのでそれとは思えないほど上等な布地で作られた代物。  こちらでは中々着る機会がないからと、出かける前にわざわざ着替えていたのだった。 「まだ荷物の片付けも残っていますし、早くご用件を仰ってください」 「兄が、おまえと婚約を結び直せと言っている」 「……えっ?」 「薬が効かなくなった原因を、兄が調べたのだ。それで───」  三条薬房の調査に入った秀雄は、店の関係者全員から聞き取り調査を行い、原因を分析した。  店にわずかに残っていた千尋が栽培した薬草と、後任者のものを比較した結果、薬の効能に明らかな違いが認められたため、千尋の行方を探して連れ戻すことになったとのこと。 「でしたら、私が今まで通り薬草を栽培するだけでいいのでは?」 「他の奴と結婚して、またおまえに居なくなられては困るからな」 「静子さまは……現許嫁の方は、どうされるのですか?」 「あちらとの婚約は解消する。気が強すぎて、口うるさくて煩わしいと思っていたから丁度いい。その点、おまえは基本的には俺に従順だ」 「……私は、従順ではありません。ですから、婚約はきっぱりとお断りいたします」  こんな男と一生添い遂げるなど、天地がひっくり返ったとしてもあり得ない。  もう生理的に、体が受け付けないのだ。  千尋とて、結婚相手に多くを求めようとは思っていない。  しかし、たとえ相手からの恋情はなくとも、せめて自分が尊敬できる人物でなければと思っている。 (欲を言えば、一緒にいて楽しく心穏やかに過ごせる人がいいけど……)  そう考えたときに、千尋の頭に真っ先に思い浮かんだのはあの人の顔だった。 (ああ、そうだったんだ……)  何もこんな時に気付かなくてもいいのに…千尋は、自分の滑稽さに小さく笑う。 「何を笑っているんだ?」 「いいえ、こちらのことです」  すぐに顔を取り繕った千尋を、実は「フン」と鼻で笑った。 「そうやって突っぱねても、おまえにはもう行くところはないぞ。ここを辞めて別の店に勤めたとしても、また兄に圧力をかけてもらうだけだからな」 「…………」 「あちらとの婚約を解消しだいすぐにでも祝言を挙げる予定だから、そのつもりでいろ」  また来ると言い残し、実は帰っていった。  相変わらずの一方的な物言いに腹が立った千尋は玄関へ塩を撒こうと塩壺を手にしたが、もったいないと思いとどまる。 「もう、恩は十分に返したよね……」  塩壺を持ったまま、千尋はまだ荷解(にほど)きの済んでいない荷物へ目を向けた。  ◇  翌日の早朝、千尋が目を覚ましたのは、家ではなく駅に近い場所にある宿屋だった。  起きるとすぐに顔を洗い身支度を整え、着物ではなく洋服に袖を通す。  今後も使用する機会があるかもしれないからと、章吾たちが譲ってくれた助手の服だ。  さらに、賢吾からは二度ほど使用した旅装用品一式までもらっていた。  大きな鞄を持ち、鳥打帽を被ってお下がりの外套を羽織れば、それなりの家のお坊ちゃんの一人旅に見えなくもない。  とにかく、万が一知人と出会ったときに、千尋だと正体がバレなければいいのだ。  千尋は、朝一番の汽車に乗り上方(かみがた)へ行こうとしていた。  このまま都にいても三条家からいいように利用され、実と結婚させられるだけ。  三条薬房の先代から受けた恩は、これまでのことで十分に返した。  これからは、自分の新たな目標に向かって邁進(まいしん)していきたい。  ◇  駅舎内は、大勢の人でごった返していた。  皆、それぞれに大きな荷物を抱えているので、千尋ひとりが目立つことはない。  さっそく切符売り場へと向かう。  これまで二度汽車に乗り、章吾が切符を買うところを隣で見ていたため、切符の買い方も乗り方もわかっている。  千尋は自信を持って、売り場に並んだ。 「上方行きの切符を、一枚ください」 「えっと……お客さんは、一等車でいいですか?」  洋装をしている千尋の恰好を見て、係員は富裕層だと勘違いをしたようだ。  御神木のときは乗車時間が一時間しかかからないため、千尋たちは三等車に乗った。  しかし、桜の木のときは夜行列車だったこともあり章吾は一等車の切符を迷わず買っていたが、あまりにも高額な運賃に千尋はびっくりしたのだ。  乗る予定の上方行きは、朝、都を出発し到着するのは夜だ。  時間がかかるため、金持ちならば章吾のように一等車へ乗るのだろう。 「……二等車でお願いします」  一等車ほどではないとはいえ、この出費はかなり痛い。  駅弁は、安いのを一つだけにしておこうと心に誓った千尋だった。  ◇  乗客の少ない客車で、千尋は出発を待っていた。  発車の時間はとっくに過ぎているのに、いつまで経っても汽車が動く気配がない。  空腹に耐えきれず、先ほど駅弁を食べてしまっていた。  千尋がさっきから気になっているのは、窓の外を慌ただしくバタバタと行き交う駅員と作業員たち。  非常に嫌な予感がした。 「え~、大変申し訳ございませんが、ボイラー故障のため当列車は運行を取りやめることになりました。お客様には御迷惑を───」  次発の汽車に乗り換えてほしいという駅員の説明に、千尋は止む無く席を立った。  幸い上方行きは本数が多いため、今日中には都を発つことができる。  売り場で払い戻しを受け次の汽車の時間を係員に確認しているときに、駅構内に数名の男たちが入ってきた。  何気なく視線を送った千尋は、慌てて顔を背ける。  男たちは、三条薬房の使用人だった。  見覚えのある顔に、動悸が激しくなり息が苦しい。  彼らは着物を着た若い女性たちの顔を確認しており、誰を捜しているのか一目瞭然だ。 「お客さん、顔色が悪いようだが……」 「……すみません。急用を思い出したので、また後で買いに来ます」  鳥打帽を目深に被り、千尋は怪しまれないようわざとゆっくりと歩いていく。  使用人たちが近づいてきたが走って逃げることもできず、そのまま横を通り過ぎる。  彼らは千尋のほうを見ることもなく、傍にいた女性へ視線を向けていた。 「……居ないな。一体どこへ行ったんだ?」 「旦那さまは、汽車に乗る可能性もあると仰っていたが、もう行ってしまったかな……」  通りすがりに話し声が聞こえ、千尋は身を固くする。  まさか、こんなすぐに不在がバレるとは思ってもいなかった。  実はまた来るとは言っていたが、次の日に、しかも朝早くに来ていたのはどうしてなのか。  変装をしていてよかったとホッとするが、これからどうすれば良いのか見当もつかない。  千尋は駅舎を出て、あてもなく街をさまよう。  行き交う人々が皆追っ手に見えて、気が休まらない。  どこかで休憩をしたいが人目に付きやすい場所は怖く、少し路地裏へ入ることにした。  適当な場所が見つかり、ようやく腰を下ろせると安堵した瞬間、体がふわっと浮き上がる。  千尋はいきなり物陰に引きずりこまれ、声も出せなかった。  白昼に起きた大胆な犯行だが目撃者は誰ひとりおらず、この日を境に、千尋の姿は忽然(こつぜん)と街から消えた。
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